「忘却」は人の世の常とは言うけれども
- 超法寺の住職
- 3月21日
- 読了時間: 3分
皆さま、こんにちは。
春のお彼岸の中日となり、一気に春めいてきましたね。ご先祖は素晴らしいと思う。
「暑さ寒さも彼岸まで」と昔から言われますが正にその通りになっています。つい先日雪が降っていたのに明日には桜の開花が始まるような予報すら出ているなんて。
人の世は慌ただしいですね。
そして私の人生もあっという間に過ぎ去るのですよ。若いからとか元気だからとか言っても、慰め程度にしかならないものです。
人間は、心頑なで自らの愚かさには気づけないものです。急がねばならないことを後回しにして、急がなくてもいいことに悩み、苦しみ、争っているのだから。
愛欲にまどい、道徳をわきまえず、怒りに狂い、財産に執着して生きています。
そのために仏道が得られず、悪道に沈んで苦しみ、生死流転は尽きません。
また愛する者ともいつかは別れ、栄えてもやがて必ず滅びていきます。
真に楽しむべきものは何一つない。
ありますか?あったら教えていただきたい。
今日は『仏説無量寿経』の現代語訳から私たち人間の浅はかな生き方についてお訪ねします。
強きものは弱きものを打ち倒し、獲物を争って殺しあい、互いに骨肉を噛み食らう。
善の道を修めることなど知らずに、無惨な殺生を犯して、その結果、恐るべき災いと厳しい罰を受けるのである。自業自得の道理は必然であって、免れることはできないのです。
お彼岸
どうして人々は、世間の雑事をふりすてて、各自が健やかな間に、努めて善に励み、ひとえに浄土に往生することを願わないのであろうか。
そうすれば、とこしえに尽きないいのちが恵まれるであろうに。なぜ、道を求めないのだろうか。何を期待して生きているのだろうか。
一体、どういう楽しみを欲(ほっ)しているのだろうか。
※お墓に参るだけが彼岸参りではありません。
ご先祖を通して南無阿弥陀仏とお念仏が申される私になることが亡き人の願いであり、往生の道を教えてくださった人たちに感謝のお念仏を申させていただくことが問われるべきです。
愚かで心頑なな身でありますから、煩悩の心を砕いてくださる【仏法聴聞】(仏さまのみ教えに耳を傾けること)が大切なのです。
お坊さんはお経だけ読めたらいいんじゃないのです。もちろんきちんとした読経も大切ですが、お釈迦さまの、親鸞さまのみ教えをお聞かせいただきながらの日暮らしが最大の努めでは無いでしょうか。聞いたつもりになっていませんか。お寺に行く暇がないなら、せめてYouTubeでお聴聞する気構えが求められているのではないでしょうか。
そんなことを思いながらブログを聞いてみました。南無阿弥陀仏
Comments