心は浄土に遊ぶなり
- 超法寺の住職
- 2024年10月14日
- 読了時間: 3分
皆さま、おはようございます。
連休最終日ですね。お天気にも恵まれました。
二度とないこの日を是非大切に過ごしたいものですね。超法寺は今日も静かにすぎていきます。う〜ん、いかんと思いつつ、やはりなるようになると思いながらでしょうかね。
今日の予定は寺カフェですが果たしてどなたか来られるのでしょうか。来てくれたら嬉しいけどね。待ってみましょうかね。
親鸞聖人のお書きになられたご和讃の帖外に、
【超世悲願をききしより、われら生死の凡夫かは、有漏穢身はかわらねど、心は浄土に遊ぶなり】とあります。
私は大変にこの和讃が好きです。
超法寺の新聞「遊」もここから来ています。
現代語訳にすると、[時間的空間を超越した阿弥陀如来の我々衆生を必ず救うという悲願を聞いてから、六道輪廻(迷いの世界)という生き死にを繰り返す凡夫(死ぬまで煩悩から離れられない命)であり、穢れ多い我が身であることには何ら変わることがないが、心は浄土にあるのと同じである。]ということです。
◎浄土真実の教えを聞いた私たちは、凡夫でありながらも、精神は既に浄土に存在するのと同じだというのであります。
これを【正定聚不退転】(しょうじょうじゅふたいてん)の位に住するといいます。
※【正定聚】とは、浄土往生を約束された仲間という意味です。
親鸞聖人は決して毎日が楽しみばかりで、苦しみを感じることがなくなるなどとは言われてはいません。むしろ苦しみや悩みのど真ん中にあっても、何があってもこの南無阿弥陀仏のこえのはたらきは、【私を助ける】おはたらきであるんだということなのです。
また親鸞聖人は、【歓喜】(かんぎ)についても、「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。『一念多念証文』
と、おっしゃっておられます。
「うべきこと」とは、浄土に往生し、仏になることです。
現在生きている私たちは、浄土往生はできません。抱えている煩悩も変わりません。
このように浄土往生はしていないのですが、必ずそうならせていただくんだと、先をおもって喜ぶ心であるということです。
このように私たちは、どんなにみ教えを聞いてもやはり凡夫であることは変わりません。
そんな私が、「我が浄土に生まれてくれよ」と南無阿弥陀仏を聞いて、「こんな私でもお浄土に生まれさせていただけるんだ」と喜んでいるのが、【心は浄土にあそぶ】ということなのです。
超法寺はこのような思いを仏法聴聞を通して共有していくお寺であります。
【聞いて忘れて、忘れて聞いて、わたしゃ籠耳、お慈悲の水に今日も一日ざぶりと浸かり、ご恩喜ぶしあわせ者よ】[渡邊尚爾師]
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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