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親鸞さまのお念仏

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

布教の最後に必ず拝読されます御文章としても馴染みの深い蓮如上人の御文章をご一緒に味わわせていただきます。


【聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもって本とせられ候、そのゆえはもろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまう、その位を一念発起入正定之聚とも釈し、そのうえの称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし、御恩報尽の念仏とこころうべきなり、あなかしこ、あなかしこ】


〈大意〉

親鸞聖人がお伝えくださった浄土真宗は、他力の信心を根本とする教えであります。

なぜならば、さまざまな自力のこころを捨てて、ひとすじに阿弥陀仏の本願のおおせに順う(したがう)ならば、仏は不可思議の願力をもって私たちの往生を決定(けつじょう)してくださいます。

そのことを「一念発起入正定之聚」(信心と同時にまちがいなく往生成仏する身である【正定聚】(しょうじょうじゅ)とならせていただく)と釈されます。

このように往生が定まった者にとって称名念仏は、往生を定めさせてくださった御恩報謝の念仏であると心得るべきです。


〈語註〉

御勧化 

人に仏道を教え勧めること。教化の意。


雑行

雑は邪雑、雑多(ざった)の意味で、本来は聖道門[この世でさとりをひらくことをめざす教え]の行である諸善万行(しょぜんまんぎょう)を往生行として転用したものであるから、このようにいう。

化土(けど)の業因(ごういん)であるとされている。正行に対するもの。


帰命

心から信じうやまう意。

浄土真宗では、本願に帰せよとの阿弥陀仏の勅命の意とし、またその勅命に帰順する[信じしたがう]意とする。

【おおせにしたがう】と釈されている。

また帰命には礼拝(らいはい)の意味もあります。


願力

阿弥陀仏の本願力[第十八願力]。

すべての衆生を救済しようという本願によって成就されたはたらきのこと。


治定(じじょう)

決定すること。たしかに定まること。


一念発起入正定聚

「一念発起すれば正定の聚に入る」

信心が初めておこったとき、浄土に往生することが正しく定まり、仏になることが決定している仲間となる。


○浄土真宗のお念仏は、よろこびの念仏。



常に浄土真宗のみ教えに親しんでおられる方々には、当然のように思われて実感しにくいかもしれませんが、当時は念仏を数多く称えて、それによって臨終に阿弥陀仏にお迎えをいただいて、浄土に往生させていただこうと願うのが一般的な理解でした。

念仏を称えるものの、お迎えがあって往生できるか、できないかは臨終までハッキリしません。

実は不安な念仏といわねばなりません。

人々は深い不安に怯えながら真剣に救いを求めたことでしょう。


蓮如上人は不安の原因を信心がないからであるとハッキリと見抜かれたのです。


信心がないとは如来の仰せを正しく聞かずに救いを求めるから、安心ができないといわれたのです。


「必ず往生させる」との如来の仰せを聞けば、聞くと同時に【必ず往生させていただける】という世界が開かれます。


それを【一念発起入正定之聚】と示されたのです。


信心によって恵まれる正定聚とは、自らの人生の目標を浄土のさとりと確信された者の生き方です。


それは如来を敬い、そのご恩を中心に喜び慚愧(ざんぎ)しつつ生きる真の生き方を意味していました。


【信心正因•称名報恩】


従来の浄土教っは聞くことのできなかった、仏教の真の生き方を聞くキーワードだったのです。


    『御文章を読む』天岸淨圓著より


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


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