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執筆者の写真超法寺の住職

往生しまっせ

「往生の生は、うまれるというほかに、生きるという意味がある」

                      (曽我量深師)


タイトルの往生しまっせは漫才の名セリフです。

でも、本来の意味からしてら実は間違った使い方です。

良くないものの例えとして用いられることが多い気がします。

仏教では、煩悩という欲から解放された喜びの境地を表しています。

つまり悟りの境地です。喜ぶべき一番縁起の良い言葉ですよ。

そう、実は縁起も同じく間違った使い方です。


本来の意味は「縁(よ)って起こる」といういみです。

すべての存在は種々さまざまな条件によって相関系し相依って成り立っているという

真理を表す言葉なのです。

それがいつの間にやら俗化して縁起が良いとか悪いとか、縁起を担ぐと言ったら実に低俗な迷信的用語になってしまっていることを残念に思います。

せっかく素晴らしい仏教の教えをお説きくださってあるというのに長い時間の中で、

【仏教の真理】が埋没していくじじつは重大なものだと思います。

事実、インドでは仏教はほぼほぼ廃れてしまっています。これが現実です。


さて往生の本来の意味は、法然聖人が述べられておられていますように、「此処を捨てて彼(かしこ)に往き蓮華(正覚の華)より化生す」という意味です。

【此の娑婆世界を捨てて彼の浄土へ往き、仏のさとりを開くということばであります。要するに往生とは、迷いの現実の境界を厭い(いとい)捨てて、煩悩の寂滅された浄土の仏国土に往き生まれて成仏することを言い表すのであります。


この往生というごが、困った時に使う表現となったのは、往生の本来の語意が極楽浄土に往き生まれるという事実が、死んでから先の話として、いつのまにか往生🟰死という意味に転化されたのです。

「あの人もとうとう往生した」とか、「苦しまないで大往生された」とか言って往生の語を死の意味で捉えてしまうようになったからでしょう。

その上で、人間は「死ぬ」という言葉を大変嫌いますから死ぬのはという意味に転化されたのです。

本来の意義からすれば、浄土に往生して成仏することですから、困るどころか実にめでたい、そしてありがたい意味なのです。

【迷いを転じて悟りを開く】という仏教の大目的に叶うことなのに。欲に生きる人間の浅ましさがそうさせないのですね。


親鸞聖人の御消息の中にも、「仏恩のふかきこと、そのきわもなし。いかにいはんや、真実の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらかんこと。仏恩よくよく御案ども

候ふべし」と、めでたく往生を遂げる重要さを随所に述べられておられるのです。


他力の信心を表すことばに、

「本願を信受するは前念命終なり、即得往生は後念即生なり」

というのがあります。

意味は、阿弥陀仏の本願を信受するとき、自力の心命がおわって、同時に他力の生命、阿弥陀仏の光明の中に生まれ出るというのであります。

それは臨終の死の時ではなく、平生今の信心に目覚めたところで、新しき生命の誕生を迎えるということを明らかにされたものでしょう。

阿弥陀仏の真実に目覚めることで自力の迷いから解放されていくのです。


阿弥陀仏の本願を仰いで南無阿弥陀仏を称える身となったとき、阿弥陀仏の絶対的な価値を知らされて無我平等の世界にめざめて、一日一日を浄土に通う永遠の生命に生かされて生きる道がひらかれるのです。

自力に死んで他力に生きる世界であります。人生を誤魔化さず生きていけるようになるのです。不可思議なせかいであります。


苦悩の中にありながら苦悩を乗り越えて生きていくことができるただ一つのみち、

流転生死の身のまま、成仏道の人生を歩んでいけるのです。

阿弥陀さまに抱かれてあると味わうことができたならば、いつでもどんな境遇にあっても生きていること自体が喜びと感じられる世界が開かれてくるのですね。


往生を誓われた阿弥陀仏の願いを我が身にいただきながら二人三脚でこの人生を生きていくのです。これこそが往生の一番大切な意味だと思うのです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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