top of page
執筆者の写真超法寺の住職

強烈な西陽にはご注意を

皆さま、こんばんは。

今日はいかがお過ごしでしたか。

何事も無く過ごせたなら嬉しいことです。

当たり前などありません。私たちは自分一人で生きているわけではありませんから、私だけが気をつけていても事故も事件も起こるのです。


夕方の西陽は目を開けていられないほどのスペシューム光線でした。

こんな時はちょっとしたことで何かが起こるものです。十分気をつけて車の運転をしたいものですね。


無いことをどれだけ思っても、この世は有ることばかりですから。

見ているつもりなのにどうしてぶつかってしまうのだろうか。誰も事故などしたい人などいないのに。

目は一瞬たりとも見落とすことはないか、いやそうでもないさ。脳だって意外とぼんやりしていたりするのだそうですからね。


先人たちのお言葉を通して味わってみたい。


[視線が向く]と[まなざしが届く]

森 正隆氏


【視線が向いているということと、まなざしが届いているということは、一見同じように見えるが、視線が向いているときの眼球は、ガラス玉のようで表情が乏しい】〈現代はガラス玉氾濫の時代だ〉



[目はなんのためについている]森 正隆氏


【目はなんのためについている?モチロン モノヲミルタメニ。それだけかいナ。ソノホカニ何ガアルノヤ。他人さんに見てもらうためについているはずなんやが•••••】


目は心の窓であり、[目は口ほどにモノを言い]目を見ればその人がわかる。

ドキッとしました。



[仏法を聞かせてもらったら、どのように変わるのでしょうか?「先ず、あなたのまなざしがかわるでしょう」]森 正隆氏


「仏法を聞かせてもろうたら、どう変わりましょうか•••••」と質問が飛んできた。

私は「先ず、あなたのまなざしが変わるでしょう」と答えてきた。

堂内、水を打ったように静まり返ってしまった。森先生はそう言われました。



[人を見る眼で自分が見えず、人に聞かせて我が身は聞かぬ]湯浅成幸氏


【真実に暗きもの】

親鸞聖人の和讃の中に『浄土をうたがう衆生をば、無眼人とぞなづけたる、無耳人とぞのべたもう』という言葉があるが、長い間、「無眼人」「無耳人」という言葉に疑問を抱いていた。

しかしこれは耳や眼の障がいを持った人への差別語ではなく、人を見て安易に非難する自分の姿が見えず、人に語りながら自分に聞こうとしない我が身の姿であり、独断と偏見に満ちた我が身が、真実に暗いことを教示された仏の言葉であることがわかった。


今日は一日色々と教えていただきました。

そして、たくさんの方々に助けていただきました。有難うございました。

私は油断をしていたのですね。

そのことを改めて知らせていただきました。

【ご催促】でありましたね。

その上で頑丈に生んでくださった両親、頑丈に育ててくださいました両親に感謝申し上げます。

おかげさまでまた新たなチャレンジをしていくことを許されました。南無阿弥陀仏


必ず、どんなことにも意味はあります。

私が気づかないことも含めてです。

有難きしあわせをいただきました。


ナンマンダブツ

閲覧数:14回

最新記事

すべて表示

Comentários


bottom of page