皆さま、こんばんは。
今日は町田市で仏縁に遇わせていただきました。初めてのお出会いでしたが何かありがた迷惑のような感じになってしまい落胆しながら帰ってきました。
こういうことはたまにはあるのですが、なかなか同じお取り次ぎでも空いてが違うだけでも受け止めていただけないことがあります。
しかしながら私は「迎合」はいたしません。
これをすると阿弥陀さまのご本願が正しくお伝えできません。
法然聖人は、『仏説観無量寿経』に「念仏衆生 摂取不捨」とある心を、
【月かげの いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ】と歌われています。
《念仏衆生》とは、阿弥陀さまに真向かい、口にお念仏を申される人を言います。
《摂取不捨》とは、おさめとって捨てないということです。
❌お念仏を申す人だけを救うというのが阿弥陀さまではありません。そのお心を歌われています。
↓
月の光は、分け隔てなく全ての人を照らし、包んでいます。しかし、月に背を向けている人は、光の中にありながら光に遇うことができないばかりか、我が身の黒い影に怯えるばかり。
月を仰ぎ見る人は、影をもちながらも、その影を背にして月の光を全身に受けて心の底まで温められ、清められていくのです。
○摂取不捨の阿弥陀さまは、全ての人を照らし抱いていながら、その事実を知らない人、たとえ知っていても疑いではねつけている人には、救いの喜びがありません。
⭕️素直に疑いなく聞き入れて、我もまた摂取の光の内にありとナンマンダブツを申す者でなければ、救われてある喜びの人生を歩むことはできないのです。
阿弥陀さまのご苦労は並大抵のことではないでしょうね。
はねつけても、それでもそれでもとはたらき続けていてくださるナンマンダブツの声に励まされているのです。
この度も、亡き人はどこにいますか?
と尋ねましたら、「天国です」と言われてしまいました。う〜ん、私たちお坊さんはあの手この手できちんとしたお取り次ぎをさせていただきませんといけないなぁと痛感しました。
お経が上手いとかを自慢するお坊さんはやたら多いのですが、某話ではお経は声も大きく上手いのだが、いかんせん法話が酷くて依頼できないと嘆く僧侶派遣業者の嘆きを聞くことがあります。そのためか一日葬や火葬式では法話をしないで欲しいと言われる業者も出てきました。これは浄土真宗僧侶としては大問題ではないでしょうか。どうやって法を伝えていくべきか、他人事ではありませんが、もっともっとお聴聞する必要があるのでしょうね。
YouTube法話も布教師ではなく布教使という自覚を忘れないようにしたいですね。
住職のYouTube法話.ひとくち法話「たのむ」を是非ご視聴くださいませ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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