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執筆者の写真超法寺の住職

平和はどこから

皆さま、こんにちは。

雪かきする音が響きます。

雨が降るので多分溶けてくるのでしょう。

月極駐車場の車がすっぽり雪に埋まっていました。いかに雪が降っていたかを感じさせられますね。雪かきを終えて、腰が悲鳴を上げています。やはりまだまだ回復には時間がかかるようです。

午後から警察署へ行かねばなりません。

被害者だというのに調書を取るのだそうです。

何か理不尽な気がするのは私だけ?


さて、雪かきする皆さまも仲良しは楽しそうにされていますが、そうでない人の視線が怖い。

前回の大雪の時は群馬県まで布教に行った帰り、池袋から先は都内までしか電車が動かず、苦労してホテルを取り、超高級ホテルに泊まらざるを得ない状況になったのが懐かしいです。

ホテルまでの上り坂が八甲田山?のような風景に見え、何度も何度も休みながら途中には後輩のお寺がありましたが•••門はもちろん閉ざされていましたからスルーした。

あれから8年ですか•••、記憶に新しい。


このように平和は常に自己主張をするかしないかで決まります。自己主張は、とかく相手を攻撃し、相手を傷つけることが多いのです。

相手の身になって考えるところに真の平和な世界が開かれます。


現代人は、相手を批判して自己主張をする人が多い。自己を省みて相手の身になって考える人は少ない。


南無阿弥陀仏、お念仏のこころは、自己主張からは生まれません。

お念仏のこころから相手の身に考える心が生まれるのです。


現代人は他人(ひと)から言われたら怒ることを他人には平気で言っています。

また他人(ひと)からされたら怒ること、無視をされる、無愛想にされることを他人には平気でしています。

また言われた他人もされた他人も、自分に合わないとすぐに反撃し、激怒する。

実に悲しいことであります。


現代人の心はコロコロ変わる。

今、感謝の心もすぐに憎しみとなる。

今、有難うの心もすぐに悪口となる。

実に悲しいことであります。

だが、もっと悲しいことは、これを当たり前

と思う心であります。

その元は【自我】であります。


自己中心の考えは、自分に合えば【愛】(心良い)となるが、合わなかったら憎しみ(不愉快)となる。


仏法聴聞は、私の考えではなかり知ることのできない阿弥陀如来さまのお手元を、ただただお聞かせいただくばかりであります。

その有り難さが愚痴の私の口から出てきてくださいます。いやはや不思議を超越して【不可思議なはたらき】があればこそであります。


凡夫が仏になる。

これほど不思議なものはないのに人間は

喜べないからお恥ずかしいですね。

南無阿弥陀仏を宝ものにすることができない。

宝ものは金や宝石だと信じ切ってしか生きていけないのだ。これが凡夫の悲しさであります。


当たり前で生きるか、【おかげさま】でいきるか、皆さまはどちらを選ばれますか。

私は【おかげ】で生きていきたいです。

あなたに支えられての我が人生。

ナンマンダブツ。

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