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他人のためでなく自分のために

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

【そのままに 生まれながらの 心こそ

  願わずとても 仏なるべし】



「自分は役に立たない人間だ」

そんなことを思い悩んでいると、いつか生きる

面白さを失っていきます。

若い頃は、何か特別なことをして、何とか人の役に立って、たくさんの人の目について、褒められたいとばかり思っていた。


人に褒められるには、一体どうしたらいいのだろうか。人に認められるには一体どうしたらいいのだろうか。

私は自分の才能と体力の限界、ストレスによる体調不良の中ギリギリまで一人思い悩んでいた。

どんなに頑張ってみても、結局手柄は親(住職)にあり私はただそれを手伝っていたくらいにか認知されていなかったようである。


「あぁ、やっぱり私はここの住職としてやってはいけないのだろう」という劣等感しかなかった。

ある時、さすがに限界が来てしまった。

それは今も忘れない元嫁から見限られてしまった時です。お互いに「我」を通し過ぎてお互いを思いやれず、またコミュニケーション不足は明らかでした。元嫁は私ではなく自分の両親にしか本音を語らずに最後まで•••そんなことでした。

周りからは喧嘩で離縁した。私が全部悪い、そんな評価しかなかったようです。


私は私なりに精一杯やっていた。

彼女がいてくれるだけで、どれほど心安らいでいたことか。それはなかなか周りには伝わっていなかったようでありました。

母が亡くなって遺品から写真が出てきた。

元嫁や門信徒と新潟のご旧跡旅行へ行った時のものだ。今見ても私はどれだけ安らかで優しい顔をしていることか。

やはり幸せでありました。

ただ上手く皆さまにお伝えすることができなかった。もう11年も昔のことだ。


今振り返ると、あの頃は「人に認められたい」、特に父から後継者として認めてほしかった。

日々に精一杯努力した。一番大事な私が生きる本当の姿を見失っていました。


私は、自分で自分が自分らしく生き抜く価値を忘れていたのではなかっただろうか。


 【そのままに 生まれながらの心こそ

   願わずとても 仏なるべし】(一休)


一休禅師は言う。人の役に立とう、胸を打つ、素晴らしい言葉だ。人に認めてもらおう。

「人に認めてもらおう」、「人の役に立とう」

このような生き方を続けていると、いつのまにか他人に対する気遣いばかりが増えていきます。


自分は自分でしかないんだ、となぜ気づけなかったのだろうか。

きっとそれは、私は私という自分の殻に閉じこもっていたからだろうね。

仏法を聴聞しても聞いていただけで、私のため、私事として聞けていなかったのだろうと今はそう思うのです。自分は間違いない•••これがある限り本当の姿には気づけるものではないのだろう。


真摯に向き合ってみると、仏法というものは私に私は私のためだけに精一杯生きていけばいいのだと知らせてくださいます。

私のために、何もわからない、わかろうともできない私を阿弥陀さまは、あなたのやりたいことをとことんやって、その中で少しでも皆さまの役に立てば、それが悔いのない人生となるのではないかと思うのです。


その愚かな失敗が実家寺を離れ、修羅場の道を選択して歩んでいる今の私の姿だと思います。

それでも、妹たちからは、「お兄ちゃんは今の姿が一番お兄ちゃんらしいよ」と、言ってくれています。

長年、兄を見ている妹たちだからこそわかるものがあるのかもしれませんね。


一休禅師は、そのような主体的な生き方をしている人を著書の中で「仏さま」と拝んでくださいます。

ま、私は死ぬまで煩悩具足の泥凡夫ですから仏さまではございませんけどね。


一休禅師は、

自分の価値を知っている人。

自分らしい生き方を養ってきた人。

そして、みんなと楽しく生きている人。

そういう人を、本来の仏、と言われている。


皆さまは自分らしく生きておられますか。

浄土真宗の生き方は知識を学ぶことではなく、私自身の本当の姿を知り、心の砕けた生き方をすることだと思います。

だからこそ蓮如上人も「ただ、聴聞すべし」と、聴聞を勧めておられるのですね。

それがどうしても授業を受けてノートに書いて満足することに埋没してしまうから人間はなかなか南無阿弥陀仏に生きることができないのですよね。


浄土真宗はお聴聞大事です。

皆さまはYouTubeではなく直にお聴聞していますか?

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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