皆さま、こんばんは。
今日は午前中、府中市までお参りへ行き、午後からは安穏法話会でした。
おかげさまで2名のお参りをいただきました。
さて、「少欲知足」についてご紹介しますが、「欲少なく足を知る」と読みます。
【欲】は我々人間のさまざまな欲望のことで、これらを求めて人間はどれほど苦悩し、また争いを起こしているのか。
まさしく人間の世界は【欲界】(欲望の世界)そのもので、そのために心が安まることがございません。
古来より洋の東西を問わず、世俗の欲望を捨てて人間の真理を求め、ひたすらその道を歩んだ人たちがいます。あるいは宗教的目的のために禁欲の生活を目指した人たちがいます。
禁欲というとさまざまな受け止め方がありますが、少なくとも彼らは心身の本能的欲求を否定することを動機として禁欲的な実践に努めているのです。
仏典には「少欲知足」を説き、それを悟りを完成させるための修行の一つに数えているのは何故でしょうか。
『仏説無量寿経』には、
「(法蔵菩薩)は、貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、またそういう思いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り•怒り•愚かさから離れていた」とあります。
しかしながら、私たち人間の有り様を見ますと、まったく真反対な生き方ではないでしょうか。
「(欲多くして)財を蓄えて人に施さず、裕福になるほどにますます惜しみ、ただ欲深いばかりで、貪り求めて満足することを知らずに、少しも善い行いをしようとしないで、山のように悪い行いを積み重ねているのです。」
貪り求めて満足することを知らないとは、少欲知足の逆であり、現実に我々人間は欲望の【虜】となって、あくことなく欲を重ね、【煩悩は深く底がない】有り様であります。
そのために苦しみや悩みに陥るだけであるのです。
経典はまさに人間の現実を浮き彫りにしています。
「世間の人々はまことに浅はかであって、皆急がなくてもよいことを争いあっており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎない。(中略)皆金銭のことで悩んでいる。それがあろうがなかろうが、憂い悩むことに変わりがなく、あれこれと嘆き苦しみ、後先のことをいろいろと心配し、いつも【欲】のために追い回されて、少しも安らかなときがない。」
つまり、経典で語るのは人間の現実は本質的に何にも変わっていないのです。
ますます欲望の欲求に走り回っているのではないでしょうか。
そのために人間の欲望をコントロールする必要が生じ、そのことが強く求められているかと思うのであります。
やはり人智に頼るのには限界がありますね。
人智を超えた【仏智】を仰いで生きていくことが求められる。それこそが南無阿弥陀仏ではないかと私は考えます。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
Comments