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執筆者の写真超法寺の住職

安らぎに至る道

皆さま、おはようございます。

昨日の激雨も上がりスッキリ晴れました。

有り難く思います。晴れてもよし、降ってもよし、そう思えたら人生はもっと楽しくなります。晴ればかりだと不足が出ますし、雨ばかりでも不足が出るのが[欲]に生きる私たちの姿だと思います。


常々、人生は苦であるとか、世は無常であるとか言っていますが、ここの認識があるかどうかで仏教の教えを仰ぐ者の生活が始まると思う。

頭では理解しながらも実践として不足を言ってはいませんか。

『大般涅槃経』に次のような話がありました。ご紹介します。


ある修行者が道を歩いていると、どこからともなく「諸行無常」「是正滅法」(ぜしょうめっぽう)という歌が聞こえてきました。

この時修行者は、「この教えこそ私が求めているものだ」と感激し、誰が歌ったのかと思い探しました。するとそこには恐ろしい形相をした鬼がいました。修行者は「まだ続きがあると思うので、その続きを聞かせてほしい」と頼みます。すると鬼は「自分は空腹でこれ以上歌えない」と言います。「食べ物をやるから歌ってほしい」と言います。すると「自分は鬼だから人間の肉しか食べない」と言います。

どうしても続きが聞きたいと思った修行者は、「歌ってくれたら私の体を差し上げます。」と約束します。すると鬼は【生滅滅已】(しょうめつめつい)【寂滅為楽】(じゃくめついらく)と歌いました。

すなわち「あらゆるものは移り変わるのが世の姿である、だから、生じたとか滅したとかということにとらわれないようになることが、安らぎに至る道なのだ」という意味の歌だったのです。

この鬼は、修行者の心を試そうとした帝釈天だったのです。


古くから日本では手習いに用いられてきた『いろは歌』は、この物語を元に弘法大師が作られたものと伝えられています。

「いろはに、ほへと」と読めば何のことだかわかりませんが、それは【色は匂へど、散りぬるを、わが世、誰ぞ常ならむ、有為(うい)の奥山、今日(けふ)越えて、浅き夢みじ、酔ひもせず】という歌なのです。

[今を盛りに匂い立つ花も、やがては散っていく、この世において常なるものはない、有為転変の迷いの世界を、今、越えることによって、あさはかな夢を見ることもなく、無明の酒に酔うこともない]と歌われているのです。


◎無常でありながら常を願うところにこそ【苦】が生じるのです。


改めてこの世は無常であると我が心に言い聞かせながら今を生きていくことこそが、私に悔いの少ない人生となり、不安な心には南無阿弥陀仏が宿っていてくださるのです。だからこそ今、南無阿弥陀仏の声に出遇っておくことが急務ではないかと私は思っています。


南無阿弥陀仏

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