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執筆者の写真超法寺の住職

妙好人の世界【六連島のお軽】

山口県のお軽さん(1801~1857)は大変有名な妙好人であります。

お軽は、【阿弥陀如来を殿御にもてば、娑婆の貧乏は苦にならぬ】といううたを残しておられます。

※「阿弥陀如来を殿御にもてば」とは、お軽さんは女性ですから阿弥陀如来を夫にもてばという意味です。

◎絶対の幸福になるということは、阿弥陀如来と結婚するようなものです。

それどころか、阿弥陀如来と【一体】になるということなのです。

※「娑婆の貧乏は苦にならぬ」とは、この世でどんな貧乏をしていても、絶対苦にはならないということです。


【重荷せおって山坂すれど、ご恩思えば苦にならず】

こういううたも残されています。

これは阿弥陀如来のご恩を思うと、今まで苦であったものが、苦でなくなる、喜びに変わると言われています。


お軽さんが、何とか仏教を聞いて、絶対の幸福になろうと求めていたときのことについて以下のように書き残されています。


「こうにも聞こえにゃ聞かぬがましか聞かにゃにゃ苦労はせまいといえと、聞かにゃ墜ちるし、聞きゃ苦労、今の苦労が先での楽と気休めいえども気が済まぬ。済まぬまんまとすましにかかりゃ雑修自力とはねだされ、どうして他力になるのじゃろ。まこと聞くのがお前はいやか、何が望みであるぞいな」


[現代語訳]

お軽は、一生懸命仏教を聞きました。

それでも絶対の幸福になれなくて、

「こうにも聞こえにゃ聞かぬがましか」

と言っています。

こんなことなら聞かないほうがましか、ということです。


ところが、「聞かにゃ墜ちるし、聞きゃ苦労

」とは、仏教を聞かなければ地獄に墜ちるし、仏教を聞きに行くのには、当時は歩いて行きますから、苦労がいります。


「今が苦労が先での楽と」とは、今苦労して仏教を聞いているのが、やがて絶対の幸福の身になれるんだ、と苦しみに耐えようとしています。そうは言っても、

「気休めいえども気が済まぬ」

今晩死んだらどうするんだと思うと、気が済みません。どうしたら自力がすたって、他力に入れるんだろうとお軽さんは、苦しみ悩んだ心の中を書き残しています。

そのお軽さんが、仏教を聞いて救われた時のことを、以下のように書いています。


【自力さらばといとまをやって、ワシが心と手たたきで、たった一声聞いたのがその一声が千人力。四の五の言うたは昔のことよ。何にも言わぬがこっちの儲け。そのまま来いの勅命に、いかなるお軽も頭が下がる。聞いてみなんせまことの道を。無理な教えじゃないわいな】


[現代語訳]

「自力さらばといとまやって」とは、

苦悩の根元を断ち切られて、ということです。

「ワシが心と手たたきで」

絶対の幸福になって、言葉も出ずに手をたたいています。

「たった一声聞いたのが」

というのは、阿弥陀如来の呼び声です。

その一声で助かってしまったから、

「その一声が千人力」

と言っています。千人力、万人力、億人力です。

「四の五の言うたは昔のことよ」

ゴタゴタ文句を言っていた、絶対の幸福になる前に、「こうにも聞こえにゃ聞かぬがましか

」と言っていたようなことです。

それはもう昔のことよ、

「そのまま来いの勅命に」

というのは、【勅命】とは阿弥陀如来の声です。

阿弥陀如来の呼び声がそのままと聞こえたと、お軽さんは言っています。これは声なき声です。言葉で表現できない不思議不思議の阿弥陀如来の声を聞きます。

それはものすごく大きな声ですから、ブッダは

【正覚の大音】と言われています。

その心も言葉も絶え果てた阿弥陀如来の声を聞いて、

「いかなるお軽も頭が下がる」

と躍りあがって喜んでいます。

大安心大満足の絶対の幸福になったことをこのように言っているのです。



素晴らしい味わいですよね。

どうですか、皆さまの受け取り方とどう違われていましたか?

「そのまま」とは、こういうことを言うのですね。私はまだまかせきってはいないです。

まだ自分が頑張っているのです。

お恥ずかしいです。もっと真摯にお聴聞を重ねていきたいです。ナンマンダブツ

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