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妙好人とは念仏の人

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんばんは。

今日も一日スッキリとした一日でした。

ただ夜になるとまた風が強く吹きます。

こうやって春が訪れるのですね。


さて今日はまたアクシデント発生しました。

頭を抱えてしまいましたが、結局なるようになると受け入れてしまいました。

一応業者さんには訪問していただくようにお願いしました。さて復旧するかなぁ。


悩んだついでに改めて南無阿弥陀仏と申してみる。南無阿弥陀仏は私の生活の中にある私にこそ活きるもの。だって欲や怒りの心は無くなりませんし、神仏にいくらお願いしたって私の都合の良いことにはなりません。

その煩悩•罪悪の身を恥じて、ただただ南無阿弥陀仏とお念仏を申しながら浄土を願う。

その姿にこそ世を浄めるお念仏の徳(阿弥陀仏)が現れるのでしょう。


「妙好人」と知られます讃岐の庄松(しょうま)さん、大和の清九郎さん、三河のおそのさん、六連島のお軽さん、石見の才市さん、因幡の源左(げんざ)さん•••••。

皆さまもよくご存知の妙好人です。

「妙好人」とは、「言葉ではいいあらわせないほどの好も(このも)しき人」ということ。


「もし念仏するものは、まさに知るべし。この人はこれ人中の分陀利華(ふんだりけ)なり」


お釈迦さまは、『観無量寿経』の最後に、浄土往生の因として念仏を勧め、念仏をする者は、人の世に咲く白き蓮の華[分陀利華=プンダリーカ]の如き人と讃えられます。

純白の蓮華は、泥沼に咲き、泥に染まらずに、その泥沼を美しくします。


念仏をする人も、煩悩の泥沼の如き人の世に生まれ、煩悩に染まらずに煩悩の世を浄めていきます。純白の蓮華の如き人と讃えられるのです。


中国の善導大師さまが、念仏者は【人中の好人(こうにん)なり。人中の妙好人なり、人中の上々人(じょうじょうにん)なり、人中の希有人(けうにん)なり、人中の最勝人なり】

と称賛されました。


つまり「妙好人」とは、南無阿弥陀仏とお念仏を申し生活をされているあなた、皆さまのことですよ。阿弥陀さまは、南無阿弥陀仏の声となり【我にまかせよ、必ず救うぞ】のはたらきですから、南無阿弥陀仏をお聞かせいただくお使いを私たちはさせていただいているのではないでしょうか。呪文ではありませんよ。


どこどこまでも煩悩具足の私に阿弥陀さまは南無阿弥陀仏と声となり飛び込んで宿っていてくださいます。おまかせすることができて、もう助けていただいてある自身の喜びが私の口から南無阿弥陀仏と出てきてくださるのです。

何とも有難いですね。

そう思えば少々のアクシデントなんてとるに足らないですよ。


そういえば、あのつば九郎さんがお亡くなりになられたとのこと。諸行無常ですから皆往きます。早かれ遅かれ私も参ります。しかしながら、圧巻のパフォーマンスが見られなくなったのは実に残念です。衷心より哀悼のまとこを表します。合掌念仏


「なごりおしく思へども、娑婆の縁つきて、力なくしてをわるとき、かの土へは参るべきなり」『歎異抄』


阿弥陀さまにお遇いして、南無阿弥陀仏を口に称えられる私にならせていただいてお浄土へ参らせていただくお互いです。

お経には何と書いてあるか。感じで難しいけど、端的に言えば【助けるぞ、何としてもお前を助けるぞ、まかせろよ】と書いてあるのです。素晴らしいじゃないですか。

これでもまだ南無阿弥陀仏を称えませんか?


強情ですね、煩悩具足の身は。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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