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執筆者の写真超法寺の住職

「如来の本願は称名念仏にあり」

皆さま、おはようございます。

今日も朝から暑さ全開でございます。

夏本番でありますね。

熱中症対策は怠らないようにお互いに準備しましょう。


さて昨日、一昨日と地元入間市を舞台に小学生が夏休みに自主映画を撮るストーリー『ラストサマーウォーズ』に心を躍らせています。


私のこの頃は本当に暗い子だった気がする。

親に叱られ、顔色をいつも伺っている、そんな怯えたような小学生でしたね。

それを映画では「後悔をしない」ことを第一に考えて自分だけじゃなくて、同じ目標を持った人が自分たちで考えて困難を克服して親すら巻き込んで見事、完成させる。

確かに夏休みの宿題は大切だけど、未来へのステップには必要な素晴らしい経験だったと思う。


そこで今日は、阿弥陀さまと私の関係について。

阿弥陀さまと私(衆生)は、親と子です。

親は子を呼び(喚び)、子は呼ばれる。(喚び)

呼んでも呼んでも、子は聞かない。

しかし聞かない子がいるから、親は呼びづめ。


浄土真宗では阿弥陀如来🟰阿弥陀仏🟰南無阿弥陀仏、親さまとも言います。


衆生とは、私たち生きとし生けるもの。


まさに親子のようなもの。

親は我が子のために願いを込め「名」をつけます。「お前が一番だ。」と、親の存在、親と呼ばせようとします。

赤ちゃんで言葉もわからない私に一生懸命に呼び通しです。

何回、何十回、何千、何万と。


初めて我が子が親と呼んでくれた時、どれだけ喜んでくれたのでしょうか。

私は子がありませんから想像です。

きっと、それまでの苦労は全て飛んでしまうのでしょうね。

我が母は、「しあわせだったのよ」と笑う。


このように同じように、私も初めから素直に南無阿弥陀仏と声にできたわけではありません。

阿弥陀さまは、はるか昔から私を喚びづめ。

呼んでも呼んでも呼んでも呼んでも•••親を呼んではくれない。

それでも阿弥陀さまは喚び通しに呼んでいてくださいました。

そのおかげでようやく「素直」になり、愚痴や他人の悪口ばかり嘘ばかり言う私の口に南無阿弥陀仏が宿ってくださいました。


阿弥陀さまは大層ご苦労くだされたことでしょうね。


「なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼれる」(西行法師)


「わしが念仏となえるじゃない 念仏の方から わたしの心にあたる念仏 南無阿弥陀仏」(才市妙好人)


だからこそ、浄土真宗のお念仏は仏恩報謝と言われるのでしょうね。


今日一日、その思いを忘れずに精一杯生き抜きたいですね、ナンマンダブツを称えながら。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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