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執筆者の写真超法寺の住職

失ったものの大きさは

皆さま、おはようございます。

最近しみじみと感じることですが、身内を見送った時、初めて人は失ったものの大きさに気づくことが多いと思うのです。

その喪失感が、自分のこれからの人生に大きな不安と迷いとを与えました。

確かに葬儀の場に立ち会わせていただく際にもさまざまな方々のお別れ(浄土真宗のみ教えは倶会一処ですが)には我が親、我が子、連れ合いなどそれぞれに悲しみがあります。心が痛たましい時もそうでないことも、中には喜び溢れるような雰囲気もあります。

これはそれぞれが故人さまと歩んでこられたことや、故人さまとの付き合い、そしてその方から与えられたものによって違うのでしょう。

 

そのような中で私は一体どうすれば少しでも皆さまの悲しみに寄り添えるのかを常に考えています。

お念仏は私に改めて諸行無常の理を教えてくださいます。頭では理解していても実感では「なぜ?」から解放されません。

仏法聴聞を通して、仏法不思議は我が身、我がいのちと、聞かせていただく時、ナンマンダブツに遇うきっかけとなり、亡き人を還相の仏さまと手を合わせ倶会一処を思う私となるきっかけとなると私は考えます。


親鸞聖人はご和讃に、

 釈迦弥陀は慈悲の父母

 種々に善巧方便し、

 われらが無上の信心を

 発起せしめたまへけり


と、お示しくださいます。

阿弥陀さまが仏に成られて既に十劫(一辺が四十里四方の岩の上に三年に一度とも百年に一度とも言われるが天女が舞い降り衣で一撫でして、その時の摩擦で擦り切れ無くなる時間)、

私たちは迷いの命を生き死にを繰り返してきました。それでも阿弥陀さまに遇えずにいました。

その迷いの私がこの度ようやく、やっと阿弥陀さまの願い、南無阿弥陀仏に遇わせていただけたことはまさに我が親、我が家族が還相の仏さまが実はわざわざそういう相となって私の人生に寄り添っていたのでしょう。


それがあればこそ、ずっと背いて生きてきた私が阿弥陀さまのご本願を聞いて、受け止め、南無阿弥陀仏を称える身にさせていただけるのではないかと私はお味わいしております。


 失なったものの大きさは、与えられていた

 ものの大きさでもある[源義春師]


そして、その皆さまの悲しみにあわせていただくことができている私も改めて諸行無常の理をお聞かせいただいているのです。

今日とも明日とも知れない我がいのちをどう生きていくのかを。ナンマンダブツ。

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