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執筆者の写真超法寺の住職

大往生とは

ピンピンコロリとか、高齢でなおかつ大して患うことなく亡くなられた方が亡くなると「大往生」と言ったりします。

でも本当にそうなのでしょうか。


亡くなられた本人はやはりポックリと亡くなりたかったのでしょうか。

いつも不思議に思っています。

個人的にはただ、そのような死を「大往生」と思うことによって安心したいだけではないでしょうか。


過去に今は亡き永六輔さんの著書『大往生』が大ベストセラーとなり1000000部(百万部)も売れたそうです。


この中で永六輔さんは、往生とは死ぬことではなく、往きて生まれるということであると述べながら、死を目前にして「生まれて良かった、生きてきてよかったと思って死ぬことができるでしょうか。そう思って死ぬことを大往生と言います」と書いておられます。


永六輔さんは、仏法の世界について触れずに老病死について川柳をもって語らせる手法や町の人々の老病死への率直な想いがつづられているという親近感が読者の心を捉えたからこそ1000000部も売れたのではないだろうか。


私は「生まれてきてよかった、生きてきてよかった」という中味や内実こそが問題だと思います。この世でしあわせになれない人が死んでも決してしあわせにはなれないと思うのです。


宗祖親鸞聖人は、【私には臨終のよしあしなど問題ではない。信心のさだまるとき、往生もまたさだまるのである】と申されました。

親鸞聖人88歳の時のお手紙です。

つまり往生とは死ぬことではなく、生きている時に真実の教えにあい、その教えと共に生き抜くことによって、いのちを育て、育むことであると言われます。【即得往生】


往生とは、単に死んでからのことではなく、この世において浄土(真実)からのはたらきかけである教え(南無阿弥陀仏)に遇い、より良き人生を生きるところから、既に始まっているのです。


よりよき生は、よりよき死につながるのではないでしょうか。


皆さまは、自分が自分で良かったと思いますか?

思い通りにならない私の人生がこの無常世界であります。

しかしながら、私は私らしくしか生きることはできません。誰かを羨んでもやはり私は私としてしか生きることはできないのです。

そして私を構成している体、内臓は、止まることなく私を生かすために一生懸命に生きてくださいます。お礼など求めずに。

素晴らしいことですね。


たまにはお礼してもいいんじゃない?

タバコの喫煙で身体を傷めているならたまには禁煙して、お酒をたくさん飲むならたまには禁酒して肝臓を労わることも大切じゃないかな?


ま、私はもう20年前に卒煙しました。

お酒はめったに飲まないです。

今更ながら身体を労わる生活しているかな。

でもストレスはたくさんあるからなぁ。


そのような上で阿弥陀如来さまはそのまま私を抱き続けはたらき続けていてくださいます。有難いですね。

親からいただいたかけがえのないこの命、今更ながらだけど少しでも長持ちさせたいなぁ。

少しでも【悔い】を残さないような生き方をしたいです。


それくらいしかご恩はお返しできないから。

いつも心配ばかりかけてごめんなさい。

お母さん、まだ痛い?リハビリは辛い?

早く元気になってね。

いるま布教所が寺院になるまでは元気でいてください。それが愚息のただ一つの願いだから。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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