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執筆者の写真超法寺の住職

大丈夫なの?

皆さま、おはようございます。朝から手が悴んで上手くブログを書けません。キーを打つ手が痺れます。先ほど散歩に二度行くことになり寒さに震えています。

でも、朝からよく歩けましたよ。おかげさまです。

さて、昨日お会いした方から「ブログで痛々しい姿を見たけど、大丈夫なの?なんかあるんじゃないの?」と心配されましたが、大丈夫なのです。これが無常世界を生きるということですから。いくらお念仏を申して阿弥陀さまとご一緒に歩んでいても、煩悩具足の人生はあることばかりだからであります。

一般的に生きておられる方は、きっと無いことを願って生きていますから何か嫌なことに出会うと不安になったり不足が出るのでしょうが、有ることを知っていると「これが無常ですね。でもこれくらいで済んで良かったよ」とポジティブに考えることができるのです。他力に信心に生きるとは無常世界を生きることを受け入れて生きるということなのです。


相手に文句を言っても、自分は運転に気をつけていると主張しても、お互いがそれぞれ動いているんだからなるようにしかなりません。誰だって事故なんかしたいなんて思ってはいない。でも一瞬のことで起こってしまうのが車を運転するということなのです。これが逆の立場だったらどうでしょうか。相手がややこしい人だったらどうでしたでしょうか。ありうる話です。だってお互い「煩悩具足の凡夫」なのですから。今回の相手もきっと驚かれたと思いますよ。だって僕が着物を着た住職だったんだからね。今後、良く無いことが起こるんじゃ無いかと不安に思うのかも知れません。

でもお坊さんでよかったじゃないですか。もしこれが反社会の人だったらどうでしたでしょうか。人生火の車か苦悩することになりますよ。

相手を選んで事故はおこせるものではないですからね。


そう言ったら、「安心しました」といわれていました。

これも大事なことです。でも実際の所は、まだ痛みはあります。

被害者でよかったです。それは許せる世界を持たせていただいていますからね。

そうでなかったら「やった、お金をもらえる」と長い時間、治療をして解決しない事態もありうるでしょう。この世は無常なのです。

私の都合の良いことにはならないのです。

仏さまは、だから真実に目覚めてくれよと願っていてくださるのです。

それなのに私たち人間は、この無常世界を真実だと思い込んで生きているのです。


仏法を聞くとはそういうことなのです。

決して自分の思い通りにはならないのにそうしようとするものだから、そこに苦悩が生じるのです。

ぜひ、お互いに気をつけながら、何もなかったら当たり前と思わずに有り難かったと喜んで生きてみましょう。ナンマンダブツ

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