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執筆者の写真超法寺の住職

第六波がついにきてしまった

皆さまこんにちは。

連休はいかがお過ごしでしょうか。

今日は朝から神奈川県、千葉県、埼玉県とお参りに出かけましたが、中でも埼玉県はめちゃくちゃな人の出と車の渋滞を感じました。

連日の新型コロナウィルスオミクロン株の大拡大ですが未だ危機感を感じませんか?

私は恐ろしさを感じましたよ。


皆さまはどうして恐怖を感じないのですか?


確かにデルタに比べたら重症化はしなくいと言われていますが、それでも感染したら後遺症で苦しまねばならないというのに。

呼吸器系の疾患は本当にめちゃくちゃ苦しいのだから。(私が今喫煙経験者として苦しんでいます。)


私たちはマスクをしているから大丈夫。

それは間違いですよ。

不織布マスクでも最大でも80%までしか飛沫を防げませんから。

ましてやデルタ株の数倍の感染力をあまりに侮っているようにしか思えません。


私たち人間はやはり煩悩という「欲」には逆らえないのでしょうか。


《煩悩の嵐の中にも 念仏において 本願の呼び声が聞こえてくる》[正親 含英]


ダメだと思っても、これほど長くコロナ禍を過ごしていると我慢しきれないのですか。

あらゆる欲を欠くことなく備えている私たち。


そこに気づいた浅原才一さんは、

「さいちや ぐちをおこすだ ねんぶつ もうせ ぐちも ほとけになるそうな ともにつろうて(つれて) ねんぶつもうす こがあな(こんな)よろこびゃ これがはじめて さいいちらちゃ(達は) ええことだ 如来さんのよろこびゅ(を) もろうて そりゃ 如来さんと おるだもの(一緒にいるから)」とうたっておられます。



さらに、

「あさましや あめのふるほど つみ(罪)がふる 六字のうえに ふるつみは つみはふれども みなきえる なむあみだぶつに てらされて」と、どうしようもない煩悩まみれの身ではあるけれども、本願念仏(南無阿弥陀仏)に照らされて、煩悩のあるがまま喜ばせていただいています。


やはり、何がどうなってもいいように称名念仏(お念仏を称える)は一番大事です。


五正行(ごしょうぎょう)

読誦(どくじゅ)•観察(かんざつ)•礼拝(らいはい)•称名(しょうみょう)•讃嘆供養(さんだんくよう)を言います。


前三後一は助業(じょごう)で、四番目の称名は正定業(しょうじょうごう)です。

他の四つは、お念仏が称えられやすいように助けているはたらきだと言われています。

まさに、お念仏(南無阿弥陀仏)申す身にならせていただけば、罪障りの多い身ながら、ちょうど春先に降る雪のように、地面に落ちてもすぐに消えてしまうのと同じで、煩悩の起こる様を見ては、お恥ずかしいと気づかせていただくことができるのです。


お念仏を申す日暮しは、

「慚愧(ざんぎ)•歓喜(かんぎ)•報恩」の繰り返しであります。


まだ間に合いますよ。

皆さまの身近な大切な人が感染したら嬉しいはずはありませんよね。

ましてや自分が感染して何が楽しく、仕合わせになることができるでしょうか。


是非、もう一度でいいから考えて欲しいですね。

南無阿弥陀仏、なんまんだぶつ、ナンマンダブツ。

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