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大きな力と生きていく

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、夜分遅くに失礼します。

ブログが更新されていませんでした。

上手く手順をふめなかったですか。

まだまだアナログな住職ですみません。


昨日は尊い仏縁で築地本願寺代行法務委託で、仕事始めとして葬儀を勤めさせていただきました。会場は入間市に来て初めての場所で、入間市の業者さまでした。

やはり入間市で寺院活動しているので、地元業者へ参れるのは大変嬉しく有り難いです。


また、代行法務で仏縁いただいた方は北陸地方のご出身で浄土真宗のお念仏をいただきながらの生活をされている方でした。

今回は菩提寺さまが遠方ということで築地本願寺さまへご依頼があり、近い寺院ということで超法寺へ依頼がございました。


新しい一年のスタートにこのような仏縁をいただけたこと頭が下がります。

やはり、いつも阿弥陀さまが寄り添っていてくださるのですね。


この度はその阿弥陀さまを仰ぐとはどういうことなのか、についてご紹介します。


如来から賜った大行が私の行となり、

如来から賜った大信が私の信となり、

常に如来の力をいただいて、南無阿弥陀仏、ナンマンダブツ•••••そうだナ、そうだナと、うなずき、この私の人生を立ち上がって歩かせていただくのです。


このお念仏に恵まれたおかげで、人生を生きるまんまが、死んで行かねばならない人生でも、これがあるからこそ生きていける。

死んでもいける。それがお念仏(南無阿弥陀仏)なのです。


この煩悩の濁水の中に悩みの多い中に功徳の宝海のお念仏が流れて満ちたあふれてくださるから群萌といわれる全てのものが、お念仏一つ(南無阿弥陀仏)で救われるのです。


《生きること、楽しくあれば、死すことも、素直に受けて、南無阿弥陀仏、なんまんだぶつ》



お念仏称えて不幸がなくなるのではなく、どんな不幸であろうとも、それを通じて、それを超えしめるのが、お念仏(南無阿弥陀仏)なのです。

ちなみに超法寺は、このような意味合いから寺号をいただいています。『教行信証』〈総序〉より


この世の順境、逆境、喜びや悲しみが、様々ある中に、その逆境にもくじけることなく力強く正しく恐れず、へこたれず生き抜かさせていただく力、これこそがお念仏(南無阿弥陀仏)なのです。


《人は苦悩すべき、生まれ泣くべき育ち、やがて死ぬべき生きている。

そのかけがえない営みをどうしてあんなにわからなかっただろうか若い日よ》[詩人/竹内テル子]


人生に起こる全ての出来事、順縁も逆縁も意味づけられて輝きを見出すことができるのです。

全て、お念仏(南無阿弥陀仏)に私を遇わせるための如来の計らいなのです。


人間の思いの中ではこの如来の計らいは理解などできません。

わかろう、わかろうと右往左往して、それが苦悩となり、より南無阿弥陀仏を遠ざけてしまいます。

わからなくてもいいのです。

聞いて忘れても全く問題ないのです。


なぜならば、私を全てわかっていてくださる阿弥陀如来さまのおはたらきが既にこの私に届けられてあるからです。


そう、南無阿弥陀仏、なんまんだぶつ、ナンマンダブツて。

寂しかったら、辛かったら、苦しかったら、孤独を感じたら、その度にご一緒に南無阿弥陀仏と声に出してお称えさせていただきましょう。

きっと阿弥陀さまは私を抱いて、前に足を進めてくださいます。


私も日々そうやって今も千鳥足で、おぼつかない足取りではありますが、この入間市で奮闘しているのです。


おやすみなさい。

南無阿弥陀仏。

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