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外から来る病は少ない

皆さま、おはようございます。

今朝は久しぶりに晴れ間のない梅雨空です。

夏本番を前によく湿って欲しいものです。

しかしながら、人間って生き物は、降らないと降ってほしい、降りすぎるとまた不足の出るものだから悲しいですね。

だって私たちの思い通りになんかなるはずないんだから。


その真理に気づくには日頃からの仏法聴聞しかありません。たま〜に聞くんじゃ足りません。


西元宗助さん(1909-1990)鹿児島県出身は、

【み仏さまから拝まれ通し、信じられ通し、願いをかけられ通し】と、おっしゃっています。


また兼好法師は『徒然草』の第百二十九段に、

「おとなしき人の、喜び、怒り、悲しび、楽しぶも、皆虚妄(こもう)なれども、誰か実有の相に著(ちゃく)せざる。身をやぶるよりも、心を痛ましむるは、人を害(そこな)ふ事なほ甚だし。病を受くる事も、多くは心より受く。外より来る病は少なし。」という一節があります。

兼好法師は、肉体を病むことよりも、心を苦しめることの方が、自他ともに大きいと述べています。

この「おとなしか人」というのは、一般の大人のことですが、その喜びも怒りも、悲しみや楽しむことであっても、みな【迷い】から起こるものであるのに、人は、それは実在するものと思い込んで、それは執着しないものはないであろうと言っているのです。


もともと喜怒哀楽の感情は、その人の性格や、そのときの環境によって大きな落差があるものですが、誰が見ても、悲しみがわいて当然のように見受けられる状態にある人であったとしても、それを見事に喜びにかえることができるものもあれば、その逆も当然出てきます。

だからこそ兼好法師は、身体を傷つけるよりも、多くは心から起こるもので、外から来る病は少ないものだと語っているのです。


この兼好法師の言葉に触れたとき、ある方からこんなお手紙をいただきました。

「私は闘病という言葉が嫌いです。私は、病と共同生活をしていると思っております。病も私も身体の一部ですし、お互いに命あるものをいただきながら、薬というある種の命をいただいていると考えています。身体の中には、病になる以前の私と、病の私が仲良く共同生活をしているのです。このように考えられるようになったのも、あるがまま、おまかせの人生と教えられたからです•••••。」


素晴らしい病の受け止め方ですね。

なかなかできるものではないと思います。

しかしながら念仏をお称えしがら生き抜くことを知らされますと、このような生き方をすることができるのでしょうか。


またこの方は、

「私ども夫婦は、夫が朝出勤のとき、塀のところまで送り出しますが、その時、私は「行ってらっしゃい。夕方にまたお互いあえるといいね」と言っているのです。」


確かにこの世は諸行無常ですから、一瞬先すらお互いにわからない命であります。

「またね」が再び会えるということではなく、「またあえたらいいね」という意味だからです。


そういえば親鸞聖人は、奥様の恵信尼さんを観音様の生まれ変わりと思い拝んでおられたと言います。また、恵信尼さんもご主人の親鸞聖人を菩薩さまの生まれ変わりと拝み、夫婦がお互いを拝み合っていたと聞いたことがあります。

皆さまは、そのような生活を過ごされていますか。


なんか恥ずかしくなります。

俺が俺が、私が私がになってしまう生き方が多いから夫婦喧嘩が絶えず争いが絶えないのでしょうか。


私【が】ではなく、あなたがいれば【こそ】と言葉を変えるだけで違ってくるとも聞きました。


これもやはり仏法聴聞をして生きていくからこそ知ることができるのではないでしょうか。


仏さま、私から願われる前にそんな幸せな生き方をしてほしいと願っておられるのでしょうね。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と。

今日も一日、思い通りにはならないけど、誰よりも私を大切に思っていてくださる親さまの願い、南無阿弥陀仏におまかせして生きていく私になれるように努めたいです。


ナンマンダブツ



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