報恩講の「恩」とは

皆さま、こんにちは。

私たち浄土真宗の仏縁を結ばせていただくお互いにとって宗祖親鸞聖人への【ご恩】は決して忘れてはならないものですね。

形だけの浄土真宗の門信徒になってはおられませんか?お寺へ参って仏法聴聞しておられますか?


いよいよの時は刻々と近づいているのですよ。

聞いておかねばならないことは、せっかくご先祖が、家族が身を挺して教えてくださったのですから、是非今こそお聞かせいただきたいものです。


真宗大谷派の僧、暁烏敏(あけがらすはや)さんは、【私どもの生活は、恩をうくる生活であると

同時に恩に報ゆる生活である】と、こう言われておられます。


また、皆さまもよくご存知の女流詩人、金子みすゞ[1903-1930]は、

《おさかな》

【海の魚はかわいそう。 お米は人につくられる。

牛は牧場で飼われている。鯉もお池で麩を貰う。

けれども海のおさかなは、なんにも世話にならないし、いたずら一つしないのに、こうして私に食べられる。ほんとに魚はかわいそう。】と詠んでいます。


まことに、魚は世話にもならず、人間に迷惑をかけるわけでもない。

でも人間にいのちを差し出す。

これを強いものが弱いものを取る弱肉強食というのなら、私たち人間同士でも弱肉強食が許されるのだろう。

食べられる魚もかわいそうだが、食べねば生きられない人間も悲しい存在と考えられたとき、まさに金子みすゞさんの心に触れることができるのではないだろうか。


魚も人間も皆実は繋がっているお互いと考えるならば、共に悲しむべき存在であり、共に許しあう世界が生まれるのではないだろうか。


許してやるんじゃなくて、許してもらっている事実に基づいた「許し」であります。

その許してもらっている事実を【恩】というのです。【恩】は、【因】に【心】とかきます。


今、私がここにあるという事実は、いのちを奪うことを許してくれる【因】によって成り立っている。

それを知る心を【恩】というのであります。


このことを改めて知れば知るほど、実は【恩知らず】の私に気づくのではないだろうか。

恩を知らない恩知らずには恩返しなどできません。

申し訳なかった。すまないね、の心が募るのです。


親鸞聖人は、この「すまない」【慚愧】(ざんぎ)の思いを【無慚無愧のこの身】(むざんむぎのこのみ)と言われました。


【恩】に【報】いるとは、

恩を返さない私が、【弥陀の回向の御名なれば、功徳は十方にみちたまふ】と、ご和讃でおっしゃるように、日々に仏法聴聞もせず、お念仏すら疎かにして、「私は浄土真宗の門信徒であります」と、胸を張っているお恥ずかしさを思い知らされ、この事実に頭を垂れ、南無阿弥陀仏をいただくところにこそ【恩に報いる道が開かれる】のではないでしょうか。


【ただよくつねに み名となえ ふかきめぐみに こたえかし】


報恩講を通して、改めて親鸞聖人のお徳を讃えながらお念仏申す私にならせていただきたいものです。

お念仏を申さない浄土真宗はあり得ません。

形だけの門信徒になってはいませんか?

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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