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執筆者の写真超法寺の住職

喚びどおし呼ばれどおし

皆さま、こんばんは。

今日ももう夕方になりました。

あっという間でありますね。

連休なのですね、知りませんでした。

しかし、慌ただしく過ぎていくのが恐ろしいです。また一日参る日が近づきます。

【生死事大】であります。

そして【無常迅速】であります。


覚悟をしておかねばなりません。

会える人、会いたい人には早く会っておきませんと後悔します。歳を重ねますとなかなか喜びの場でお会いすることが難しくなるものです。

「またね」が無い人生は寂しいものです。


そして何より自身のいのちの往く先を解決していくことは一番重要課題であります。

誰にも変わってはもらえません。


浄土真宗の宗祖親鸞聖人のお念仏の見方は、『教行信証』(行巻)に詳しく述べられています。中でも【六字釈】(ろくじしゃく)では、南無阿弥陀仏は、阿弥陀如来が、衆生(いのち)に如来の行を与えてくださる大悲の心より生じた喚び声であると解釈されています。

浄土教の流れでは南無阿弥陀仏、衆生が、阿弥陀如来の御名(みな)を称する称名念仏(しょうみょうねんぶつ)と解釈されてきました。


親鸞聖人もこの見方を継承しながら、称えつつ、それは如来より賜る大行であり、喚び声であると親鸞聖人独自の見方を示されます。


喚び声とは、み仏と念仏申す衆生との対話であるとみることができましょう。

お念仏申す生活の中で、み仏に聞き、み仏と私が対話し、その中でいよいよ私の救いの道が知らされるということでありましょう。


阿弥陀如来の喚び声について述べられたのは、中国の善導大師であります。

親鸞聖人はこれを継承して【六字釈】で、その解釈を用いられたのです。


善導大師は、人間を孤独な旅人に喩え、その旅人が群れをなす猛獣や、盗賊に追い詰められ、荒野の中をひた走りに走り、火の河、水の河の前にたどり着くという有名な二河譬を用いられます。しかしその河は、四、五寸の白道があるのみで、とても危険で渡れそうにありません。その岸辺に立って、追い詰められていく絶対危機なる旅人に、西岸上より「この道を来い」との喚び声が聞こえ、また背後からは、此岸にあって「この道を行け」との声があり、その声に励まされ、決断して白道(びゃくどう)を進みゆく姿を述べています。


人がなぜ、お念仏のみ教えでなければならないか、お念仏申す人生の歩みとは、どのような内容であるかを、実に巧みな譬喩(ひゆ)の中から教えられています。

彼岸と此岸の声は弥陀釈迦二尊の声であり、み仏と対話しつつ救いの道を進む姿が説かれます。


現代において最も見失われている【自己を問う】ことが、改めて浮き彫りにされてきます。絶対危機、問題を抱えているかをどの程度、私たちは知っているのでしょうか。

そして、私たちが限りあるいのちを生きていれかを身の上にどれほど受け止めているでしょうか。


南無阿弥陀仏を申す生活は、その最も大事なことをみ仏より喚びかけられる「喚び声」と表すのです。

南無阿弥陀仏を称え、み教えを聞き、色々な聞法の場にもお参りし、仏教書に親しむ生活は実はみ仏の喚び声を聞くということになり、その中で、本当に私とは何か、私がこの人生を生きるということは、どのような意味があるのかを改めて問い直すことになります。

お念仏に触れていくということは、知らず知らずのうちに南無阿弥陀仏に私が育てられ、私が私を知ることになるのでしょう。


是非、南無阿弥陀仏に触れる機会をたくさん持てるようにしたいですね。

読んでも大切ではありますが、聞いて学んでいくことも実に大切なことであります。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、な

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