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善人などではないこの私

夜分に失礼します。

前回のブログにおいて当事者ではない私が偏見をもって糾弾してしまいました。実に愚かなことをしました。お恥ずかしいです。

しかしながらこれこそ私が煩悩具足の凡夫たる偽善の証でもあります。どのような言葉を重ねても常に自己中心的なものの見方しかできない我が身可愛さから離れることが出来ないのです。


「実力のない善人」(清沢満之)をご紹介して改めて自身の愚かな姿を悔いたいと思います。


明治時代の念仏信仰者でありました清沢満之は、精神主義を唱えて他力信仰の内面的深化をはかった人として知られています。

彼の精神主義は、当時の思想界全体に大きな影響を与えました。

その清沢満之に、次のような言葉があります。

「悪人を憎むような善人は、まだ実力のない善人である」


どう思いますか?面白い表現ですよね。

「実力のない善人」といった考え方は、とても斬新です。

私たちは悪人を憎みます。その人がやった悪い行為を憎んでいるのですが、そのとき、自分であればあのような行為をすることはないなどと考えています。しかしそれは間違いであります。私たちが他人が悪いことをしていると言うときは、それと同じようなことを自分もしているのです。私たちが持っているモノサシは他人の悪は大きく見え、自分の悪は小さく見える。

そんなおかしなモノサシです。

それを【ゴム紐のモノサシ】と呼んでいます。そんな自分本位なモノサシで他を批判などしてはならないのです。


それから自分はあのような行為はしないと思っていますが、それは自分が恵まれた環境にいるからです。その人と同じ立場に置かれたら、私たちだって同じことをしたかも知れないというのに。そう考えるべきなのに、そうは考えられずに他を責めているのです。相手を思いやるとは常に自己中心的な判断ではなく自分もそうするかも知れないという相手の立場に立って言葉にすることが大事ではないのでしょうか。


本物の善人は、他人の悪を赦せる人間です。


他人の悪を糾弾する人は、本物の善人ではありません。むしろ偽善者と呼んだ方がいいかも知れません。どう思われますか?

私は頭が下がりました。

南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・。


※清沢満之

浄土真宗大谷派の僧侶(1863~1903).尾張(愛知県)の人、16歳で得度(お坊さんになる)し、東本願寺育英教校を経て東京帝国大学に入学、ヘーゲル哲学を学ぶ。明治23年(1900)浩々洞を主宰し、『精神界』を刊行、精神主義を提唱する。主な著述に、『我が信念』『宗教者哲骸骨』などがある。

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