「命」の輝きに気づこう
- 超法寺の住職

- 10月18日
- 読了時間: 4分
今日はドタキャンから朝を迎えました。
最近は急激な葬儀依頼が無くなり頭を抱えています。ようやく依頼があったらドタキャンとは衝撃がラージであります。
しかしながらこれも「縁」あればこそであり、当たり前などないという現実の姿でしょうか。
以前友人が、「葬儀が無いのは亡くなる人がいないのだから喜ばしいことですよね」などと笑顔で言われ愕然とし、何も返す言葉がありませんでした。皆さまはどう感じますか。
そういえば昨今では子どもたちや大人でもゲーム人気が影響してなのか、「命の尊さ」を伝えることが難しくなってきたように感じるのです。毎日のように報道される事件や事故、それに伴う裁判所の判決に「命の尊さ」が薄れているように感じるのです。
かけがえのない、たった一つの命が伝わりにくくなっている気がします。
夏休みにも、親子で網を持ち虫かごを持ち歩いている姿を見る機会がありました。
捕まえた虫は飼育するつもりでしょうか。
虫の人生は「子孫を残す」ことです。
人間に捕まえられて虫かごの中でどうやって子孫を残すのかな、標本にされてしまったら••••さまざまなことを考えます。
私は子どもの頃、やはり虫を捕まえていましたが、周りの大人は、「観察したら逃してやりなさいね」と、促してくれていました。
子どもながらに「どうして苦労して捕まえたのに、逃さなきゃならないんだよ」なんて思ったものですが、仏法を聞く身にならせていただくと、その意味がよくわかりました。
やはり人間は、仏法をお聴聞するべきです。
「命の教育」は大事だと思います。
私が子どもの頃、学校では道徳の授業があり、「明るい農村」って見せられたのが懐かしいですね。
確かダウンタウンの番組で豆を大切にしない子どもがいて、その親に豆の大切さを教えるパロディがあったのを思い出しましたが、こういうことも大切じゃないかな、って思います。
あまりにゲームなどで人を殺したり生き返らせたりすることを普通に刷り込ませると、「命の尊さ」を伝えることが難しくなっていくように思うのです。まして仏教の教えを知らないとか、宗教的視点を抜きにしようとする傾向が(宗教=悪)マスメディアにより益々伝わりにくくなっている気がします。
「僕は産んでくれなんて頼んだわけじゃ無い」とか、「気に入らないから殺したんだ。」など命を軽視するような言動を聞くと寒々しい気持ちになります。それ故に、親が子どもを殺し、子どもが親を••••などという恐ろしい事件が当たり前のように起こっているのかもしれません。
悲しいかな、「命」を比較対象でしか見ることができずに傲慢にしか判断できない人間、私たちがいるからこそ阿弥陀如来のご本願が誓われたのではないでしょうか。
まさに不可思議な世界であります。
如来の智慧は、人間の知恵とは違い、物事の道理を見極め、自分と他人という垣根を取り払った世界であります。
ですから、如来の智慧を受け入れることにより自らの命とは何かを知ることができます。
如来の誓いを信じ、南無阿弥陀仏を称えながら生きていくことにより初めて、「支えられている命」であることに気づかせていただくのです。それこそが全ての命に共感することができる世界を我が事ととして見ることができるのです。一人で生きているんじゃない、周りの人たちに支えられて生きていることを知ることではないでしょうか。
私が私の命が大切だということは、私以外の人たちも、その家族も含めて大切だということを忘れてはなりません。
仏法を聞いて生き抜かれた方々は寝たきりになろうとも身をかけて教えてくださいました。
あるご門徒のお見舞いに伺ったとき、「お見舞いに来たよ」というと黙って胸元で合掌してくださった姿を私は一生忘れません。
また遇う日を楽しみにしていますよ。
「命の尊さ、輝き」を身をかけて見せてくださいました全ての人に感謝します。
だからドタキャンのことは忘れます。
私がそれをしないことに意味があるのでしょう。反面教師であります。
でもしばらくお暇続きだからショックは相当ありましたが。ま、お互い煩悩具足の凡夫ですからあるべく縁を大切にしていきたいですね。
すみません、愚痴を申しました。私も弱いのです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏




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