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執筆者の写真超法寺の住職

南無阿弥陀仏となえれば

皆さま、おはようございます。

今朝は寒くなりましたね。

体調を崩さないよう気をつけてください。


南無阿弥陀仏となえれば、憂いの心波に消え🎵🎶🎵🎶🎵🎶

南無阿弥陀仏となえれば、無量のひかりきわもなし

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀 南無阿弥陀 南無阿弥陀仏


『念仏』という仏教讃歌です。

築地本願寺で一年間研修をしていた際に朝礼で歌わせていただきました、懐かしいですね。

そういえば研修が終わった時に女子職員の方から、「末田さんがいなくなったら大きな声で歌う仏教讃歌が聞けなくなり寂しいです」って言ってくれました。

いつでも全力が私のモットーですからね。


八年前ですか、早いものですね。

お念仏をお称えすると、「阿弥陀さまとご一緒です。お父さん、お母さん、今日も頑張るよ」って気持ちになります。

親鸞聖人がご和讃に、

南無阿弥陀仏となえれば

十方無量の諸仏は

百重千重囲繞して

よろこびまもりたもうなり

と、お示しくださいます。


我が親も阿弥陀さまの大慈悲心のはたらきで

往生浄土の道を歩まれました。それが諸仏のお仕事です。凡夫(死ぬまで煩悩から離れられず、仏法にも遇いにくい)の私を仏の道に誘うお仕事をされるのです。


独りじゃなかもん。

二人連れの我が人生。

阿弥陀さまがご一緒くださいます。

もっと言えば南無阿弥陀仏の声が我が口から出てくださるならば、諸仏(ご先祖さま)が寂しいと一人の殻に閉じこもってしまう私を百重にも千重にも囲繞(取り囲んで)常に守っていてくださるのです。

安心ですよね。他力本願のお心を知ってください。あの人もこの人も、常に私を思い、お念仏をお称えする私によりそい、悲しみの私の身心に住み着いてくださいます。


それを確認する場が【お聴聞】であります。

仏法は亡き人のために聞くのではありません。

亡き人が縁となって、「聞いてくれ。お念仏を人生を生きていく灯火としてくれ、寂しいとき、悲しいとき、つらいとき、いつでも南無阿弥陀仏を称えてくれ。その声が私の今の姿だからね。いつもあなたを見ているからね」

と、喚び続けておられます。


恩師、松林宗恵さんが常々言われていました。

「私がのが(我)を捨てて、おかげのげでいきるのですよ」と。


凡夫たる愚かな私たちは、すぐ「我」が出てきます。自己中心のものの見方しかできない愚かな私たちであります。相手を思いやることがなかなかできない。相手が困っているから手助けをしてあげたいがなかなかできない。

してあげたいと思いながらも、できればやりたくない。人生は一度きりです。

二度とないこの命を誰のために生かすか、何を残すのか、私が生きてきた証を私はこの入間市に浄土真宗本願寺派のお寺を遺したい。

決して立派なお寺では無いかも知れませんが、皆さまに喜んでいただける、温かな聞法道場を遺していきたい。それだけが私の願いであります。


皆さまのお力をお貸しください。

少〜しだけお貸しください。

私たちが生きた証、遇い難い南無阿弥陀仏に出遇わせていただけた【ご恩報謝】を形にして。


南無阿弥陀仏に出遇えたお互いはお浄土までご一緒のお互いじゃないですか、皆さまの安穏のために残りの人生を全部じゃなくてもいい、ちょこっとでも超法寺のために••••お願いできませんか。


【世のなか安穏なれ、仏法弘まれ】


私の願いであります。

南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・

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