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執筆者の写真超法寺の住職

「称える」安心と喜び

更新日:2022年11月18日

皆さま、おはようございます。

今日もおかげさまにて良いお天気に恵まれています。一日一日の過ぎ去る早さに驚かされています。


さて今年は両親が相次いで往生してしまい、未だに喪失感がありつつ南無阿弥陀仏をお称えしながらさまざまなことを考えながらたくさんお味わいしております。


南無阿弥陀仏が私の口から出てくださるということは、私に仏さまが来て守っていてくださるのですね。

親鸞聖人は、ご和讃に

【南無阿弥陀仏となえれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞(いにょう)して よろこびまもりたもうなり】〈現世利益和讃〉とお詠みくださいます。


まるで親が(母)我が子を必死に守るような姿であります。しかしながら親は我が子しか守ることはできませんが、仏さまは南無阿弥陀仏を称える私を百重にも千重にも取り囲んで、喜んで守っていてくれますというのですから、これは安心しかありませんよね。


しかしながら人間って不確かな御守りやお札なんかを頼りにしようとするから不思議であります。


浄土真宗がなぜ祈祷を否定しているかは、上のような素晴らしい阿弥陀さまの世界を知るからだと思います。やはり日頃からきちんとお聴聞をしなければならないと言うことですね。


南無阿弥陀仏をお称えするということは、阿弥陀さまだけではなく、砂の数ほどおられると言われる諸仏さまにいつも【包まれる】のです。

それを知らないから、当てにならないものを頼りにして生きようとするのでしょう。

聞くってなかなか難しいのですね。


それにも増して、きちんと聞く、素直に聞くってもっと難しいのです。

自分勝手な思いで受け取るからいつまでも【安心する】ことができないってことなのでしょう。


きちんとお聴聞しておれば、[お迎えに来て]などという言葉が出るはずはありません。


米沢秀雄師は、

「生きよ おのれを尽くして生きよ 散るときが来たら散るがよい 枯れるときが来たら 枯れるがよい」と、おっしゃっています。


そのすべてを包みこんでくださる世界があるのですね。さあ今日も南無阿弥陀仏を称えながらしっかり生きていきましょう。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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