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動物は救われないのか

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、おはようございます。

昨日は愛犬みやび君の四十九日でした。

家族皆で四十九日のお勤めをしました。

悲しみを新たにしながら命を問いました。


ペットロス症候群というのでしょうか。

大変長らく共に生きてきました。

ただ悲しいと言うものでもなく、我が子以上に我が子の存在でありました。

入間市に来て苦楽を共にして奮闘して来れたのも彼の存在無くしては考えられませんでした。


この度は阿弥陀さまのお救いについて考えてみたい。以前、『本願寺新報』で阿弥陀さまのお救いについて某師が語られていましたが、阿弥陀さまは、「すべての人を救う」という内容でしたが、私は阿弥陀さまは「あらゆる命を分け隔てなく救う」という解釈でありました。

何故なら根拠があります。


亡きみやび君は生前、常々私がお参りしていると仏前に身を置いていました。なかなか人でさえ参れないというのにですよ。

また、『世の中安穏なれ現代社会と仏教』には、「最近、ペットの葬儀を行ってくれるお寺がありますが、動物も極楽浄土へ行けるのですか?」という問いに対して、「ペットのお葬式をどうしたらいいのか戸惑う住職が多いですが、頼めばしてもらえる場合が多いと思います。動物が死後、ただちに極楽浄土へ行けるかどうか、仏ではない私たち人間にはわかりませんが、生きとし生けるものを照らし、仏にしたいと願われている阿弥陀様ですから、人間とは別な手立てをご用意されていることでしょう。


なお、私たちにとって大事なことは、まず私自身が確かにお浄土へ生まれるかどうか、私のいのちのゆくえを教えに聞いていくことです。」


このように書かれてありました。

これは、浄土真宗本願寺派の前門主であります大谷光真師が、立命館大学文学部の特別講座において、参加者からの質問に対して上記のようにお答えになられているのです。


またお経にも以下のような記述があります。

『大阿弥陀経』には、

【第四に願ずらく、〈某作仏せしめん時、わが名字をもつてみな、八方上下無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳•国土の善を説かしめん。諸天•人民•蜎飛(虫編に需)動[けんぴねんどう]の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ〉と。

『註釈版聖天』「教行信証 行巻」引用文より


⭕️さまざまな虫の類いに至るまで、わたしの名号を聞いて、喜び敬う心をおこさないものはないであろう。このように喜びあふれるものをみなわが浄土に往生させよう。わたしは、この願いを成就して仏になろう。もしこの願いが成就しなかったら、決して仏にはなりません。

[現代語訳から抜粋]


私たち人間から見る世界と、阿弥陀さまの見る世界はまったく違うのであります。私たちの目線は常に「欲」であり、「私の価値観」であります。こちらから量るものには阿弥陀さまの大慈悲心は理解できないのです。

ですから広大無辺の阿弥陀さまを信じて疑わない私になること、つまりは仏法聴聞を重ねていくしかありません。

この言葉が、今は亡き愛犬みやび君が間違いなく仏道を歩んでいると思うことです。

有難い仏縁であります。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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