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執筆者の写真超法寺の住職

功徳は積めない私には

皆さま、おはようございます。

今日もおかげさまで良い天気に恵まれました。

暑さは厳しいとは思いますが、豪雨で災害が起こることを思えば喜ぶべきでしょう。

私たち念仏者は不足を不足とせず、どちらであっても喜ぶ中に生きていくのです。

しかしながら、それができないのも【凡夫】たる証ではないでしょうか。


だからこそ、凡夫たる者に仕上げられ整えられ届けられてある阿弥陀如来の誓願のはたらき、【南無阿弥陀仏】を称えながら、強く明るく生きていくのです。


さて、浄土真宗以外では私の頑張りで神仏に功徳を積み上げていこうとします。ては【凡夫】たる私たちに【功徳】など積めるものなのでしょうか。そういう例えのご紹介です。


江戸時代の末、鎌倉の円覚寺で山門改築のための募財をした。梅津伝兵衛という商人がやって来て、誠拙禅師[せいせつ]に「わずかですが五百両を寄進させていただきます」と。

「ああ、そうかい」と、誠拙禅師は気のない返事。五百両といえば大金です。

伝兵衛は、よく聞こえなかったのだと思って再度、少し声を大きくして「五百両を寄進させていただきます」と。禅師は前と同じく「ああ、そうかい」と。たまりかねて伝兵衛は「和尚さま、五百両といえば、私どもにとっても大金です。それを寄進するのですから、お礼の一言ぐらいあってもいいと思いますが••••」

「馬鹿者!お前が寄進するのは、お前が功徳の種を蒔き、お前自身の功徳を積んでいるのだ。わしが礼を言ったら、お前の功徳はお礼で帳消しになるが、それでも良いのか。おかげで功徳を積ませていただきましたとお礼を言うのは、お前の方だぞ」


善いことをして善いことをしたと思わない。


仏教で功徳を積むとは、全てこうしたものです。凡夫の私には到底できることではありません。その私を「まかせよ【南無】必ず救う【阿弥陀仏】」と、呼び続けてくださる大悲のご恩を想い、「するんじゃない、させていただくのです」と、善い行いを心掛けて生きていくことこそ、私たちのすべきことだと私は思いました。

皆さま、この話をどう思いましたか。


昨今の新興宗教でもトラブルは、多額の資金を功徳の種として寄進したことで何か善いことをしたと勘違いしている、欲望の代償としてすればこそトラブルになっているのです。

仏教には、【喜捨】(きしゃ)という布施の形があります。

布施とは、功徳の種を蒔くのではありません。

善いことをして善いことをしたと思わない。

喜んで捨てたのだから、そこには喜びのみあり、捨てたことに、捨てたものに執着も、後悔もないはずでしょう。


どこまでもどこまでも執着し、見返りを求めていこうとするから【凡夫】たる私たちは幸せから遠ざかってしまうのですね。

そんな愚かな生き方しかできない私のために阿弥陀如来は、真実の法を南無阿弥陀仏の六字に込めてお届けくださるのです。

だから後はそれを疑わず、素直に受け取っていただくだけなのです。


南無阿弥陀仏と声にするだけ。

それだけで功徳を積まなきゃいけないなどと勘違いすることは無くなっていくはずです。

すぐにはならないですが、少しずつ少しずつ私にちょうどいいようになりますよ。

阿弥陀さまにおまかせして生きていきましょう。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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