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執筆者の写真超法寺の住職

出会いを喜ぼう

皆さま、こんばんは。寒さが身に沁みます。

コートを珍しく着てみてもこの寒さには耐えられずカイロを持たなかったことを後悔しました。行きは良い良い帰りは寒い。

悲しいかな、動けば愚痴が出る私であります。 なかなか喜べないのです?


普段の生活を振り返っても、南無阿弥陀仏をお称えしながらも生きていることを当然と思い、生まれてほしい、本当のしあわせになってほしいとの願いも気づかず、地位や名誉や財欲にとらわれ(さすがに宝くじには興味を示さなくなれました。)毎日を忙しい忙しいと愚痴ばかりこぼしています。この私のことです。


 今日もまた愚痴をこぼして日は暮れぬ

 愚かなるものなす術なし


このような生き方を阿弥陀如来に照らしてみた時、初めて気づかされるのです。


この世には当然(当たり前)のものなど何一つありません。すべては「縁」によって成り立っているのです。それなのに、こんなことなら死んだ方がマシとか、生まれと来なかったら良かった•••そんな愚痴が出るなんて悲しいことです。私は仏法聴聞を知るまではこんな愚かな考えで生きていた。お恥ずかしいですね。


浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、そんな自分の姿を静かに見つめられた時、【いづれの行も及びがたき身なれば、とても地獄は。一定(いちじょう)住みかぞかし】と、私のすること、思うことはすべて地獄行きのタネばかりです。

私(親鸞)が地獄へおちずに誰がおちましょうかと悲しまれたのであります。

その悲しみの涙の中から【弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。さればそくばくの業(ごう)をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のあたじけなさよ】と、阿弥陀如来の本願に出遇われたのです。


罪の意識すら持ちえず、常に我が身の助かることばかりを最優先にして生きようとする浅はかな生き方、そういえば今日は京都アニメーションの判決が出ましたよね。戦後最悪の死亡事故(死者34人、負傷者32人)と言われますテロ事件のような重大事件でありながら、未だに容疑者は保身にしか目を向けて生きることができません。34人が亡くなられたということは、34人〜68人の親がおられ、未曾有の激しい悲しみを与えたのです。それでも、自分に正当性を見出すことに注力しているような気がします。

このような、どうしようもない生き方の人がいるからこそ、阿弥陀如来はご苦労くだされたのでしょうね。

そういう私も「縁」が整えば同じような生き方ができるのです。煩悩具足の身である以上、他人事にはならないのです。


お寺参りを知らされ、仏法聴聞をさせていただき、南無阿弥陀仏をお称えさせて生きていくことを知らされたからこそ、かろうじてこのような生き方とはならずにいるのでしょうか。


きっと容疑者も、人との出会いが喜びとなる、そんな生き方を知っていたら、また一人でも周りにそんな生き方をしている方がいたら、このようなことをせずに思いとどまることができたのかも知れませんね。

人の体温を知らない人は、安易に人を傷つけることができると言います。体温の交換(挨拶を交わす)ことで生きている喜びを感じることができれのではないかと私は常々思い、挨拶を大切にさせていただいています。 


『いのちの重さ』

最初のボタンを、かけまちがえたら、

最後のボタンは、かけられないが、

どんな毎日も、無駄な一日はない。


踏み外した一日も、最後のボタンの穴も、 

御仏となれば、心にかけてくださってある、

私のいのちの重いことよ。



『むかえてくださる』

落ちこんだ底に、光が射しこんでいる。

私のいのちになりきって、仏が立っていて

くださる。


涙にくれた日に、ほほえみで迎えてくれる。

私のいのちになりきって、母が立っていて

くれる。


仏のおわします場所、母のふところは、

あたたかい。


[『今日生くの詩』織田惣平]


素敵な詩に出会いました。

我が母は最後まで優しかったなぁ。

母は最後まで温かかったです。

深い愛情を有難う。

ずっと私を応援してくださってありがとうございました。また遇いましょう。

南無阿弥陀仏、お声の中にご一緒くださるお母さん。

あなたから賜ったいのちを最後まで生きていきます。きっと皆さまのために入間市に浄土真宗本願寺派のお寺を残して往くからね。

それが私の親孝行かな。散々困らせた、悲しませた私の恩返しだと思う。

欲を言えば、お母さんに見せたかったよ。

でもきっと、南無阿弥陀仏の声となっていつも笑いながら見ていてくれますよね。


あなたがこの世からいなくなっても、私はあなたが大好きなマザコン息子であります。

あなたがいてくれたから生きて来れました。

あなたが背中でお聴聞する姿、お念仏をする姿を見せてくださいました。

有難うございます。やはりあなたは仏さまでしたね。私にとってちょうどいい仏さまであったといつも喜んでいます。

私は生まれてきて良かった、生きてきて良かった、そう思えるような人をたくさん育てていきたい(偉そうかな)。それには、私が人との出会いを喜んで生きていかなきゃダメだよね。


お母さんは、それを大切にしていたもの。

優しく人に接して、優しい笑顔で語りかけていたよね。【和顔愛語】(わげんあいご)を実践してくれたお母さん。

今でもお母さんを思い出して泣いています。

生前、お母さんはおじいちゃんの写真見て泣いていたよね。それを見て笑っていたけどね、ごめん。今更ながらお母さんの気持ちがわかりました。私も悲しい。

お母さんとの関わりが今の私の涙になっているのかな。


お母さん、辛いけど南無阿弥陀仏をいただきながら一歩ずつ前に進んでいくよ。散々、皆さまを困らせた恩返しをしていきます。

何もまともにできない私を皆さまが支えて、応援して、助けてくださいます。

私は果報者でありますね。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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