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執筆者の写真超法寺の住職

凡夫たる私の歩む道

皆さま、こんばんは。

南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・

仏になる。すべてのものを自己の如くに見る仏になる。相手の身になり、すべてのものの安らぎを自己の責任において実現していこうとはたらく仏のなる。

仏教とは私が仏になる。仏になる道を歩むことを勧める教えであります。


比叡山天台宗の開祖最澄さまは、仏道は【忘己利他】(もうこりた)、「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」と教えます。

利他、他を救う。他に安らぎを与える。

それだけではいけません。

「己を忘れて」これができてこそ初めて仏道になるのです。

あなたはできますか?


私には無理ですね。お恥ずかしながら。


さて、善に根をつけて「善根」(ぜんこん)と言う。根は地中深く伸びて木を支え養います。

根が表に出ると木は枯れます。

善を行い、それを表に出さない。

↓↓↓

しかしながら私たち人間は、善いことをするとそれをいつまでも忘れることができません。

「褒めらたい」、「自慢したい」、「見返りが欲しい」、挙句のうちに善いことをしようとしない人を責めます。

人間は悪いことをした時より、善いことをした時の方が【我執】(がしゅう)が表に出て、周りの人に害毒を流します。

それ故に、善人ぶる人は嫌われるのです。


【忘己利他】(もうこりた)、是非実践してみてください。周りを見て天台宗は素晴らしいとか、修行道は素晴らしい、憧れるなどと言う前に、自身が実際にやってみることが大事ではないでしょうか。


私は大学時分にこれを憧れて浄土真宗の道を離れ、禅の道を志しました。

大学四年間、坐禅を組み、比叡山にも摂心で参加しました。夜な夜な坐禅をやり続けました。

しかしながら自身の甘さばかり気付かされました。到底出来はしないと知らされました。

やればやるほど憧れだけで【忘己】などできない、自分のことばかりに執着する愚かな姿ばかりが見えてきました。

もちろん【利他】などあろうはずはありません。

親鸞聖人の思いと比較するなどおこがましいですが、私も修行道に触れたおかげで知らされたのです。


南無阿弥陀仏は、その執着の自己が知らされた私が阿弥陀仏に照らされ、抱かれ、導かれて、そのまま浄土に生まれて仏になる道、行きつ戻りつの凡夫(死ぬまで煩悩から離れられない)たる私の歩む道、仏道でありました。


決して自力聖道門(修行道)を否定はしません。むしろ尊敬いたします。

私には到底無理な道でした。

諸仏から見放された私が救われていく道は、自力にはなく、阿弥陀仏の大慈悲心に身を委ねていく他力の道にのみありました。


回り道をしてもいいんですよ。

回り道をしたからこそ知らされたのですから。

私にはきっとこれが必要だったのでしょうね。

善知識さまのお導きがあればこその私であります。


今日も一日、たくさんの方々に助けられ、支えられ一日を過ごすことが出来ました。

さて、明日もあるのでしょうか。

あれぱ有り難いですね。

皆さま、ありがとうございます。

おやすみなさい。なんまんだぶち

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