皆さま、おはようございます。
今朝も良いお天気に恵まれました。
有難いことですね。
お晨朝は、本願寺第十二代准如上人ご祥月のため「礼讃(後夜偈)」のお勤めでした。
久しぶりの「礼讃」でした。
普段あまり私はお勤めしていないのですが、やはりいいですね。この後、9時30分〜築地本願寺本堂にて「准如上人ご祥月日中法要」がお勤まりになります。
ということで、准如上人とはどのような方であったかをご紹介します。
【准如上人】
天正5年7月9日[1577年8月3日]にお生まれになられました。
幼名は阿茶丸(あさまろ)
院号は理光院
兄は教如(後の東本願寺)
慶長7年(1602)徳川家康が教如に七条烏丸に四町四方の寺地を寄進し、東本願寺が分立。
このため准如が継承した七条堀川の本願寺は西本願寺と呼ばれるようになった。
一説には、若き日に三河一向一揆に苦しめられた家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために教如に東本願寺を寄進して分立させたとあるが明確なものの史料がないため断定できない。
現在の真宗大谷派は、「教如は法主を退隠してからも各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とするグループと教如を法主にするグループに分裂していた。家康の寺領寄進は本願寺の分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎないという見解を示しています。
寛永7年11月30日(1631年1月2日)54歳にて示寂されました。
激動の時代をお念仏と共に生きてくださった方ですね。
いつの時代も阿弥陀さまのおはらたきの中を生きていくことこそが、安心となるのです。
阿弥陀さまの願いによって完成された智慧と慈悲の源である、お浄土の全体が「本願力」のはたらきとして南無阿弥陀仏となって、常に私の上にはたらいていてくださっています。
いつでも、どこでも、私の口からお念仏が溢れて出てくださるのです。
【衆生】(しゅじょう)
生きとし生けるものすべてのいのち。
すべてのものの「いのち」の安らぎを心から念じ、すべてのものを安らかなさとりの
境地にあらしめてゆこうというのが、阿弥陀さまのご本願であります。
よく聞き分けてください。
【煩悩具足の凡夫】というのは、つまらぬものということではありません。
本来は尊いものでありながら、その自分の尊い「いのち」の本当の相(すがた)を見失ってしまい、お互いが仏の子らしくない生き方をしていることを恥じて、
煩悩具足の凡夫と言っているのです。
このことを私が味わえたとき、【十方衆生】という言葉が味わえてくるのであります。
阿弥陀さまは、私がどんな状況になっても、親としての責任を持って、私を救わずにはいれないのです。私がどんなに背こうとも、どんなに逃げようとも、阿弥陀さまは親である限り、責任を持って私を呼び戻し、私を正しい方向へ向け変えてゆこうとされるのです。
それこそが阿弥陀さまのお救いであります。
このようなお取り継ぎをさせていただきました。
南無阿弥陀仏
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