top of page

「悪」を離れようとする教え

皆さま、こんにちは。

どんよりどよどよの曇り空。

入間市はちらほらと雨が降ったり止んだり。

いかがお過ごしでしょうか。

私は朝から行ったり来たり。

買い物をしたり、旧宅の現状回復したり。

庭もすっきりしましたよ。

本堂も今週末までには全て持ち出せることでしょうね。

約8年住んだこの家もいざとなればあっけないものです。さまざまなことがありました。

ウチの子も何人も居たのに居なくなりましたし、訪れる方もあり去る方もありです。


私たちが生きる世界は常に移り変わっていくのです。家族も必ず一人二人とこの世を去ります。なぜか?それは役目を終えたからです。

何かを伝え、何かを残し、皆去るのです。


名残惜しく思えども、娑婆の縁尽きて力なくして終わるとき、かの土へは参るべきなり。


『歎異抄』の一節です。

私たちは私たちがまるで気づくことのない、大慈悲の阿弥陀如来さまの他力本願に遇わせていただいて、二度と生老病死の理を繰り返さない【さとり】の命にならせていただくのです。

せっかく生まれ難い人間に生まれたのに、阿弥陀如来の【ご本願】に遇わずに○んでしまったら勿体ないのです。


○ねば仏


この言葉の意味もわからず、○にさえすればいいところへ行けるなどと思ってしまう浅はかな私たちを哀れんでおられるのが真実なる神仏の願いではないでしょうか。

中でも、「あらゆる命を必ず救いたい!」という仏願が親心となり、南無阿弥陀仏の声となり気づかない私たちに喚びかけられている。

聞いても聴いてもわからない。

わからなくても信じられなくても、親のはたらきにより受け入れられる私になるようにと、阿弥陀如来ははたらいていてくださるのです。


浄土真宗のみ教えは、【悪人正機】(あくにんしょうき)と言いますが、これは悪人(犯罪者や乱暴者を言うのではない)、つまり死ぬまで煩悩から離れられない私(凡夫)は、自らではさとりの命にはなれません。

そもそも神仏から見放された私たちです。

見放されたのも気づかずに人間は、日々神仏に祈願(私の都合事)をしているのです。


このような悪人である私だというのに、自分は賢い、自分は正しいと他を責めながら生きようとします。だから争いが絶えないのです。

阿弥陀如来の慈悲光に我が身を照らしてみれば、あらま不思議、何も胸を張れることすらありませんでした。救われん私を救いたいという願いに出遇うことが私がこの度、人間に生まれさせていただいた意味であります。

それなのに遇わずに生きようとして本来の私がすべきことを見失っているのは凡夫という煩悩から離れられない私だからです。

離れられない私は自らの頑張りでは往生することはできないのです。


できない私をそのまま救いたいというはたらきを自らが成し遂げらたのが阿弥陀如来さまであります。本来私がすべき修行も悟りも阿弥陀如来がぜ〜んぶ引き受けてくださり、それを南無阿弥陀仏の六字の中に込めて届けていてくださいます。


だから私はただ、それを疑わずに素直に受け入れていくだけなのです。

『歎異抄』には、【聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業(ごう)をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と、親鸞聖人がいただいておられたと記述されています。


悪人を他人事として聞くのは浄土真宗のいただき方ではありません。

皆さまは、悪いと知ってするのと、悪いとは知らずにするのでは、どちらが罪が重いと思いますか?

悪いと知るということは、してはならないことだと知るということです。してはならないということを知ったならば、以後はそれをしなくなるかと言えばそうではありません。

ここが私たち人間の悲しいところなのです。


親鸞聖人は、お手紙の中で私たちは、心の奥底に潜む自己中心性に基づく煩悩に踊らされて、してはならないことをし、言ってはならないことを言い、思ってはならないことを思うような存在であるとお示しになります。

↓↓↓

しかしながら、おかげさまで阿弥陀如来の願い【南無阿弥陀仏】の声を聞いて、悪口や愚痴ばかりのこの口が南無阿弥陀仏と声になってくださいますと、あらま不思議、少しずつ、少しずつ、しなくても済むようになっていくのです。

これは本質的なことは何も変わらない私ではありますが、阿弥陀如来の【ご本願】のはたらきによって、そうなっていくのです。


親鸞聖人は、「仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづてさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。」と、述べられています。


◎浄土真宗は、「悪人こそを救う」という、ご本願を聞き、自らの悪を教えていただくことによって、悪を離れようとしてゆくという教えなのです。

❌決して悪人こそが救われるのだから、悪はやりたい放題だという教えではありません。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・

閲覧数:12回

最新記事

すべて表示

死後の世界

人間に生まれることは難しい。 「礼讃文」(らいさんもん)には、 人間に生まれてきて仏法に遇うことはまたかなり難しいことである、人間に生まれてきた今ら仏法に遇うて救われなかったならば、もはや私が救われることなど望めません。 [三帰依文](さんきえもん) 人身(にんじん)受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く。 この身今生(こんじょう)にむかって度せずんば、さらにいずれの生(しょう)に

留言


bottom of page