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信心をいただくこと

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

浄土真宗では、信心はするのではなく、いただくのです。どうやってか。それはただ一つ、仏法を聴聞するのみであります。

では何を聞くのか。

仏願の正起本末[しょうきほんまつ]を聞くのです。

私たちは、助けて欲しいなどと、いささかも考えず思いもしないのです。すべて自分は間違いない、死ねば天国へ行くなどと自惚れるばかりなのです。違いますか?


そのような危なっかしい生き方の私たちを阿弥陀という仏さまは、見捨てることなく必ず救い浄土へ生まれさせると誓われ、その願いを南無阿弥陀仏のはたらきとして常に届けていてくださいます。

それは仏さまは、まことの親になられたからです。親ですから、我が子たる私たちの苦悩するのを放ってはおけないのです。子の苦しみは親の苦しみ、子の悲しみは親の悲しみであるからです。

その親心を聞くのであります。


一、耳で聞く

二、心で聞く

三、足で聞く


耳で聞くとは、耳ではっきり聞こえる時にお聴聞せよということです。

歳を重ねるとすぐ眠たくなるし、耳も疎くなるものです。

妙好人の源左さんが常々おっしゃっていましたが、「聴聞もシュンがあるでのー」

つまりこれは若い時からお聴聞をせよとのおススメであります。


次に心で聞くというのは、七里恒順和上さまが常々言っておられる

一、今日の説法は初ごとと思って聞け。

[生まれて初めてお聴聞をしたという感動と喜びを忘れるな]ということ。


二、私一人がための説法として聞けということ。他人事として聞いてはならないという戒めです。


三、今日の説法は今生最後の説法としてお聴聞せよということ。

[次のお聴聞の機会がないかもしれぬと、お聴聞の大切さを教えてくださいます]


足で聞くとは、どこへでも法を求めてお参りせよということでしょう。

『歎異抄』第二条に、

「おのおの十余箇國のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとえに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり•••」とあります。


念仏一つで救われるか否かをはるばる関東から京都まで親鸞聖人を訪ねて命懸けで歩かれたということです。

つまり、お聴聞とは我が人生をかけて聞いていくことなのです。

お彼岸とは、お墓参りをするだけの行事ではなく、私の往くべき道を明らかにする仏事なのです。是非お寺へ足を運んで聞いてください。


南無阿弥陀仏

おやすみなさいませ。

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