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信じる前からもうすでに

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんにちは。

今日も良い天気に恵まれました。


さて今日は術後2週間検診で東銀座へ行ってきました。東銀座は平日にも関わらず人でごった返しておりました。きっと歌舞伎座で上演があったのでしょうね。


今日は2時間待ちで診察していただきました。

なかなかの疲労度でしたが順調に回復しているとのことで

また来月に行きます。


さて、話は変わるが親鸞聖人が常々仰っておられた言葉に「帰命」というものがあります。

そう「正信偈」の初めに出てきます「帰命無量寿如来」(きみょうむりょうじゅにょらい)です。

これは親鸞聖人が本当に依るべきものに依るのは、「帰命」であり、「帰命無量寿如来」とは、「無量寿如来に帰命したてまつる」ということです。


また親鸞聖人は、「帰命」という言葉の意味を

【釈迦•弥陀の二尊の勅命にしたがひて、召しにかなふと申すことばなり】と、お釈迦さま、阿弥陀さまの勅命(ちょくめい)に従い、お喚び声に従うということであると仰っいました。

これこそが、お念仏(南無阿弥陀仏)をいただくものの根本の姿勢がお示しになられているのだと味わっていくのですね。


阿弥陀さまのお心に従って、我が人生を生きていくのです。南無阿弥陀仏が我が口から声となっていてくださいますか。 心の中で称えています、などと強気なことをおっしゃる方もおられますが、違います。

だって皆さまは、「お父さん(パパ)」、「お母さん(ママ)」って心の中で呼んでいたりしますか。それでその心の中で呼ぶあなたの声に気づいてくれますか、さてさて。

阿弥陀さまの喚び声が我が身に届いたら必ず声となるように仕上げられてありますから、喚びたくなくても呼ぶようにはたらいています。 他人から促されて南無阿弥陀仏を称えるのは他力ではないように感じるのは私だけでしょうか。やはり声となってくれる、いつでもどこでも何度でも南無阿弥陀仏が声となる姿こそが本当に従っていることではないでしょうか。

親鸞聖人は、【本願召喚の勅命なり】とも仰っています。

阿弥陀さまの喚び声が私に届いたからこそだと思います。

それなのに人間は、平生我が身を頼りにし、我が身によって生きていると思っていませんか。 若さに油断し、健康に油断して、老いにすら油断して生きている。縁が尽きれば全てひっくり返る人生だというのに、仏法が身につかない、南無阿弥陀仏が声にならない。

「が」に執着し、なかなか「げ」に生きていけない私。その私を阿弥陀さまは先手のはたらきをもって、喚び続けていてくださいます。 いつ気づくのかな、確かなのは「今」だと言うのは確かだよ。

南無阿弥陀仏が声になってくださっている人は当たり前だとは思わずに、まだ声になっておられない方に南無阿弥陀仏をお聞かせしましょう。称える前から救いはあったことを改めて再認識してみたいですね。

今日、東銀座を歩きながらいかに南無阿弥陀仏を称えて生きている方が少ないのかを思い知らされました。私は幸せ者です。いつでもどこでも何度でも南無阿弥陀仏が我が口から出てくださいます。お父さん、お母さんありがとうございました。

南無阿弥陀仏(-∧-)合掌・・・


※10年以上ぶりに縁があった方の故郷までお参りへ行きました。あの時見た景色が懐かしくも嬉しくないのご情けないなぁと我が欲深き姿に悲しくなりました。草加市の松並木

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