供花が教えてくれる
- 超法寺の住職
- 5月23日
- 読了時間: 3分
皆さま、おはようございます。
今日は昨夜の雨のおかげで少しヒンヤリした朝であります。
5月もあっという間に残り1週間になってしまいました。【無常迅速】であります。
かけがえのない毎日を過ごしている認識すら忘れてしまいそうな慌ただしい今日この日をブログを書いている時に再認識しています。
明日は超法寺の宗祖降誕会です。
初めてお二人のご講師をお招きしてお聴聞させていただきます。ワクワクします。
是非お参りくださいませ。お待ちしております。
さて皆さま、日頃から仏前にお参りする中でお花をお供えされると思いますが、どのようなお気持ちでされていますでしょうか。
仏前にお供えする生け花の意味は二つ。
①み仏の大慈悲を象徴している。
②この世の無常を改めて確認するため。
やはり②が私には一番大切ではないでしょうか。私たち人間が一日で急に老衰してしまうなどはまずありませんが、お花は多くは今日美しく咲いていても、あっという間に枯れ散ってしまう儚さをみせますから、まさに諸行無常の象徴のような存在かも知れませんね。
しかし花は私たち人間を楽しませるためにさいているわけではありません。種を保存する目的をもって咲いているのです。
お花の人生の目的は種を繋いでいくことなのでしょう。しかし私たち人間の人生、目的は種の保存だけではありません。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の迷いを超越する【悟り】の世界にこそ最大の目的があります。これを忘れてしまっては人間に生まれることができた喜びを知らずの虚しい人生となってしまいます。
みずや君 明日は散りなん花だにも 力の限りひとときを咲く
素晴らしいお言葉ではないでしょうか。
私の人生、たとえ他人の目に留まりにくい、まことにささやかなものでありましても、私の成すべきものに向かって日々精進すれば、それはまことに意味ある人生と言えるのではないでしょうか。
人の目に触れない山奥でそっと一本の草花がその花を懸命に花を開き咲き誇る姿にこそ、本当の輝きがあるように私は思うのです。
私は我が街入間でそんな【与生】を生きてみたいのです。
※仏教の教えに遇えたら生き方が必ず変わっていきますよ。「余生」ではなく、ご先祖から賜った命を最後まで輝かせていくのです。だから余りものの命ではなくて、与えられた尊い命を生きていただきたいのです。
きっとご先祖の切なる願いはここにあるように私は感じています。
これくらいしか恩に報いることなんてできないから。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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