おはようございます。
まだ頭の中がモヤモヤしています。
早く寝たからかも知れませんがまた夜中起きております。生きるとは悩み多いことですね。
改めて親鸞聖人がおっしゃる【信心】についてお味わいしてみようかと思いました。
信心ということについて親鸞聖人は様々に仰られておられます。これは私のYouTubeでの法話『たのむ』でもありますが、親鸞聖人は「たのむ」とか「したがう」とか、あるいは「阿弥陀さまにはからわれる」とも、仰います。
私の疑いの心は、そうたやすくは晴れません。
信じたらいいのでしょうか、信じなくてもいいのでしょうか。一体どうしたらいいのでしょうか。
私の心を詮索しますと、色々な問題がおきてきます。
親鸞聖人は、私がはたらきかけられていく世界ではなくて、【阿弥陀さまのはたらきの中に、私が生かされているのだ】ということを、教えてくださるのです。
なかなか難しいのですが、どんなにお聴聞を重ねていても皆忘れてしまうことがあります。
長年、おみのりをお聞かせいただいていても、「御文章」も「正信偈」も「仏説阿弥陀経」も暗記していますとどんなに自慢していても、条件が熟してきますと全て忘れてしまうことがおこってしまうのです。
それはどうしてなのでしょうか。
私の日々の努力、頑張りによって救われていくものならば、毅然として、堂々と胸を張ってこの世にいのちを受けて良かった、何も思い残すことなどない、有難うございましたと、このいのちを終えていくことができるのです。
しかし条件が熟してきますと、何が出てくるかわかりません。
しかし何が出てこようとも、あなたの善悪は問わない、善くても悪くても、阿弥陀さまの方から常に喚び(呼び)続けていてくださっているのです。
「何も残らないけど、お念仏が残ってくださるということは本当に有り難いことだなぁ、もったいないことだなぁ」
恩師の言葉であります。
何が出てくるかわからない私でありますが、【なもあみだぶつ】のお念仏が私の口から出てくださる日暮しをさせていただくということは、本当に有り難い、勿体ないことですね。
私の口から声となってくださるお念仏が残るのではありません。
これは阿弥陀さまのおはたらきが私の口から声となってあらわれてくださるものです。
たとえ口にお念仏が出てこなくても、阿弥陀さまのご本願が阿弥陀さまのお誓いが間違いないということをお聞かせいただくことはとても大事なことだと思うのです。
阿弥陀さまの【ご本願】のみ教えを通して、阿弥陀さまのお心が私に【南無阿弥陀仏】と、はたらきかけてくださるという本願のご縁をいただいているのです。
そのご縁は昨日や今日に始まったものではなく、はるか無限の過去世からのご縁なのです。
親鸞聖人はご和讃に「発起せしめたまへけり」とお示しくださいます。
※発起(ほっき)とは、「昔からありしことをおこすを発といふ。今初めておこすことを起といふ」(異本左訓)
喜べないことも、私が気づけない中に仕上げられた素晴らしい世界があるのです。
見たこと、聞いたこと、興味のあること、好きなことでしか善し悪しを判断できない私たちの生き方、考え方の中には実に理解し難いものが多いかを真摯にお聴聞を重ねていくと知らされますね。
おぎゃーと生まれた時からのことだけを考えたり、理解しようとするのでは私の本当の真実は見えてはこないのです。
私がわかること、見えることだけを信じても本当の私のいのちの姿には気づけないのでしょう。
なぜ私は人間に生まれてきたのか。
なぜ私の思い通りにならない人生を生きなくてはならないのか。
いずれ死んでいかねばならない私は一体どこへ行くのだろうか。
この問いは既に阿弥陀さまが、親鸞聖人が、蓮如上人が明らかにされておられます。
それを身近にしてみ教えを耳にする機会を持たせていただけているとは実に幸せなことなのです。その幸せの場を寄せてくださったのは私のご先祖さまであり、私の親なのです。
だから私は我が親は還相の仏さまだといただいています。
そうでなければ、今まで散々、迷いの命をさまよい続けてきたこの私が阿弥陀さまのご本願に遇わせていただき、この愚痴ばかりの口に南無阿弥陀仏が声となってあらわれてくださるなど有り得ないと思うのです。
他人の言葉では興味を持てない、信じられない、わかろうともしない疑い深いこの私ですもの、仏さまはわざわざ我が親としてこの世にあらわれてくださって、私の人生を共に歩んでくださいながら少しずつ、少しずつ、本当に少しずつ、私に南無阿弥陀仏が受け止められるようにはたらいていてくださったのではないでしょうか。
私はそう思わずにはいられないのです。
学生時代、わざわざ京都まで学びに行かせてくださったのに、親心がわからない愚かな私は人生初の一人暮らしにうつつを抜かして遊び呆けて、夜な夜な夜のクラブ活動にあくせくしていたのですから。
そんな道を外して人生を歩む私を父は責め立てもせずに尊重してくださいました。(結構叱られはしましたけどね)
母も心配しながら大学時代は私の歩む道を認めてはくださいませんでした。その姿から私の行く道を正してくださったのが母でした。
つまり、両親は仏さまのおはたらきを持って、私を南無阿弥陀仏の信心をいただく身に人生をかけて育ててくださったのです。
親鸞聖人はご和讃に、
「釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまへけり」『高僧和讃 善導讃74』と言われています。
何とも有り難いことでありました。
私の生きる道を二人は人生をかけて教えて還ってくださったのです。お釈迦さまのように、阿弥陀さまのようなはたらきを私にくださいました。
ですから、全部こちらではなく、あちらから仕向けられてありました。もう安心ですよ。
ただ今を生きるだけ。
あ、朝になっていましたね。
今日も一日、南無阿弥陀仏とご一緒に歩んでいきます。
「朝な 朝なにみ教え仰ぎ、浄き(きよき)つとめにいそしむわれら」『朝の歌』
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
Comments