top of page

何のために生きるのか

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんにちは。

今日は湿度の高い蒸し暑くなりましたね。

車でエアコンをかけていても冷気を感じられないほどです。息苦しさを感じます。

しかしながらこれからはしばらくこの状況は変わらないので対応していかねばなりません。

生きることを許されているのですから大切にします。


さて、この度は、[何のために今日を生きるのか]についてご紹介します。

世間一般の方々の仏教に対する感じ方は、おおかたの人が、悲観的なものとして受け取っているのではないでしょうか。

例えば「無常」という言葉一つを例にとっても、🟰「死」と結びついて暗く、悲しい響きとしてだけ伝わるようです。

しかし「無常」とは人生を、ありのままに見たことで、この世の中にあるものすべてのものは、永久に変化しないものは何一つないということです。


したがって死ぬとかだけが無常ではなく、生まれることも、進歩し発展することもまた無常だからであります。

不変ではないから私たちは不安な気持ちになるのです。苦しみ、悩み続けるのですね。

ではどうすれば解放されるのでしょうか。


「まことなるもの」

それは永久に変わらないもの

それを求める心が宗教心といってよいでしょう。


迷いの命の中で、私たち人間だけが生死の世界をこえて「仏の声」を聞くことができるのです。そして永遠の真理の世界に生きることが可能なのです。

誰も避けられない「生」、「老」、「病」、「死」は目先に囚われて生きるのではなく、この不安に思う私に寄り添い、共に歩んでくださる阿弥陀如来との出遇いだけにこそ安らぎとして与えられるのです。

不安なまま、苦しいまま、悲しいまま、寂しいまま、悩むままをそのまま抱き止め、一緒に歩んでくださる仏さまが阿弥陀如来であります。


何にもわからないまま、死んで仏にならせていただく喜びすらわからない私たち。

わからないから、大切な人が亡くなっても法名(南無阿弥陀仏を称え阿弥陀如来に救われお浄土へ生まれ仏となっていかれた)を付けずに、その上、位牌を仏さまと勘違いしてお参りをしてしまう私に喚び続けておられます。

浄土真宗の仏さまは、【南無阿弥陀仏】です。


阿弥陀如来だけが何もわからない私を先手の救いで必ずお救いくださいます。


おまかせさせていただきましょう。


そして永遠の今を生きていきましょう。

心の動かすときはいつでしょう。

「今」でしょう。


だって一秒先がわからない私たちですから。

亡き人が【まことのいのち】を知ってくれよと願っておられますよ。

必ずまた遇えるから、南無阿弥陀仏を申す人になってくれと、声となって働いていてくださいますよ。


お父さん🟰南無阿弥陀仏


お母さん🟰南無阿弥陀仏


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

Comments


bottom of page