皆さま、おはようございます。
今日も素敵な朝ですね。私は横浜市まで来ていますよ。やはり大都会ですね。
今朝は16号線はトラックが多く二時間かかりましたが無事に着きましたよ。
さて今日は、皆さまもご興味のあることでしょう、【何のために生きているのか】についてお話ししましょう。
仏教では、【仏に成るために生きている】と答えます。これは皆さまもご存知だとは思いますが、ではどうやったら【仏になれるか】はわかりますか。世間一般では人が亡くなると天国へと言うのが一般的のようですが、人間が天国に行くのはなかなか大変であります。死ねばではなく、神さまとの約束(してはいけない)を守れた人しか天国には行かれません。
人間でもなかなか行けないのに、ペットが死んで虹の橋を渡って天国へはまずあり得ないのです。これは飼い主の願望ではありましょうが、ペットが死んで行ける場所ではないのです。
お釈迦さまは「私の気が付いたことは、どんな人でも同じように気が付けるのだ」と言われています。誰でも気が付けることだと。
ところが、お釈迦さまのお弟子になられた人たちは、皆「自分もお釈迦さまのようになろう」と思って、一生懸命、お釈迦さまのマネをするのですが、誰も仏に成ることができません。
お釈迦さまは、大事なことに気が付いた。
【迷いを克服していく】
【迷いを乗り越えていく】
教えに気が付きました。
そしてそれは、お釈迦さまだけではなく誰でも同じことに気が付けるのです。
この二つが仏教の柱です。
その【誰でも気が付けることなのだ】ということをとても大事にしたのです。
その流れが浄土真宗、浄土の教えにつながっていきます。
皆さま、なぜ自分が南無阿弥陀仏を称えているか、お念仏をするのか、【ナンマンダブツ】がどこから始まったかを考えたことがありますか。
大元はどこにあるか。
なぜ自分は南無阿弥陀仏するか。
その大元が、『正信偈』の三、四行目にあるのです。「浄土真宗聖典」を開いてみてください。
「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」
(ほうぞうぼさついんにじ ざいせじざいおうぶっしょ)
法蔵菩薩がまた菩薩になる前に、世自在王仏に出会ったと。あらゆる浄土の世界を見せていただいた。これこそが今、私が「南無阿弥陀仏」をする、始まりなのですね。
葬儀でご導師が、『正信偈』で一音高くして「五劫思惟之摂受」(ごこうしゆいししょうじゅ)と言われています。それほど大事な言葉なのです。気が遠くなるほどの時間考え、考えての願い、誓いなのですから。
なぜ生きねばならないか、それは私たちが生きている世界は常に移り変わる、そして決して思い通りには生きれないことを知ること。私が神仏にいくら祈願しても私の思い通りにはならないことを知り、その上で阿弥陀が真実であるを知るのですね。
その辺りを考えてみながら是非、『正信偈』を読んでみてくださいね。
さあ、そろそろ時間です。
今日は久しぶりに七条袈裟を付けますぞ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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