他力本願なのにどうして
- 超法寺の住職
- 2024年4月15日
- 読了時間: 3分
皆さま、こんにちは。
いやはや今日も暑かったですね。
もうTシャツでいい位でした。
先程、整骨院へ行きほぐしていただきました。
おかげで少し楽になりました。
さて今日はめちゃくちゃ久しぶりに旧友と電話でお話ししました。何十年ぶりかな、彼が結婚前だからなぁ、三十年ぶりくらいにはなるかな。その彼は兵庫県三田市のご住職で得度{僧侶となるための儀式]研修の同班でした。
学生時分にはよく遊んだなぁ。青春時代です。
この度は彼の奥さまのご親戚が都内におられて亡くなられたことで、世田谷区のこれまた得度の同班だった住職に依頼したんだけど、予定が合わずに巡り巡ってこの度、私が勤めることになりました。まさに【縁】でありました。
そのおかげで、めちゃくちゃ久しぶりに縁が繋がったのです。不思議な話ですよね。
それほどこの度は私が参らねばならないご縁になったのですからね、精一杯頑張って勤めたいと思います。
近いうちに彼には超法寺へご出向いただきたいですね。積りに積もった懐かしい話もしたいですからね。
今までたくさんの方々からいただいたものをお返しすること、一人でも多くの方々に仏法聴聞する機会を持っていただきたいですね。
さて、浄土真宗のみ教えは【他力本願】、つまり阿弥陀さまの他力の信心をただ素直に受け入れるだけなので、厳しい修行も必要ないのです。それなのにどうして、たった六字の名号【南無阿弥陀仏】が口に称えられないのだろうか。宗祖親鸞聖人はご和讃にこう言われています。
一代諸教の信よりも
弘願[ぐがん]の信楽[しんぎょう]
なほかたし
難中之難[なんちゅうしなん]ととき
たまひ
無過此難[むかしなん]とのべたまふ
と言われています。
また「正信偈」には、
弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯
と同じ意味であります。
親鸞聖人は、「本願の念仏を信楽して、その信心を受け入れることは大変難しく、難中の難で、これ以上難しい信心はない」と言われます。
それはどうしてでしょうか。
【邪見(仏教を否定する誤った見方)】
【驕慢(驕り高ぶり、自分は賢いと執われる】を持っているからだそうです。
《難信》
⚪︎有ること難い信心ですから、その信ずる法が
最も尊いという法の尊高をあらわす見方。
⚪︎本願を信じる私の方に執われがあり、疑った
りしてなかなか本願におまかせできない身で
あるという見方。
浄土真宗は難しいとも言われますが、阿弥陀さまが難しい信心をわざわざ勧めるはずはありません。受け止める私の側に煩悩という邪魔ものがあるのです。
それが他力のはたらきに出遇うことで、少しずつ少しずつ、私の理性が砕かれ、阿弥陀さまのはからいにより、すべてはからわれていく。
すべては本願の他力[阿弥陀さまの一人はたらき]に生かされて生き抜く道であることも教えていただくのです。
自分勝手なものの見方ではかるのではなく、煩悩を抱えて生きていく私のために仕上げられた【法】であるとお聞かせいただいて、わからないままお称えしていくのです。
少しずつ、少しずつ、まかせられる私になる。
焦らず、南無阿弥陀仏の声を仰ぎながら生活を重ねていきたいものですね。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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