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他力念仏のすすめ

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

『歎異抄』第八条

 念仏は行者のために非行・非善なり。

わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ、わがはからひにてつくる

善にもあらざれば非善といふ。

 ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには非行・非善

なり、と云々。


人間は誰でも、自分が認められるために、さまざまな努力をしている、といって

も差し支えないと思います。

ところが親鸞聖人は、阿弥陀さまの眞実(おおまこと)の前には、何ひとつ認められる

ような自分は存在しない、と仰っるのであります。

それも、一声のお念仏を称えることにさえも、自分の力を認めようとはなさっていないのです。といって、私たちはお念仏を称えなくてもよいかというと、そうではありません。お念仏を称えることを自分の手柄のように思う、そんな称え方を否定されたのです。


ところで、『歎異抄』第七条にお示しになった【念仏者は無碍の一道なり】について、ここにいわれる念仏者は、そのまま「信心の行者」であることをうかがってまいりました。

行者といえば、白装束を身にまとって巡礼する人、山伏姿、比叡山の回峰行、永平寺の座禅や清掃など、一生懸命に自分で励み努めて修行する人のことだと思いがちですね。


しかし第八条が書かれた背景は、お念仏を自身の行と受け止めて、一生懸命に称えることを身上とした人たちがいたに違いありません。修行はできないが、せめてお念仏ほどは一生懸命に称えようとしたひとがおられたことでしょう。

そいすれば必ず功徳が与えられると考えたことでしょう。


しかし、このようなお念仏は〈自力の念仏〉と言われるものです。

親鸞聖人は、これは阿弥陀さまが他力のお念仏に縁の遠い人に便宜上お示しになっているのであって、決して「自力の念仏」を勧めているのではありません。

本意はあくまでも十八番目のご本願にお示しくださった〈他力の念仏〉を勧めておられるのです。


【わがはからいを超えた如来のはたらき】

第十八願に誓われたお念仏は、自力の善行を超越したものです。

それは、まさに〈浄土真実の行〉であり、〈選択本願の行〉だとお示しです。

◎お念仏は阿弥陀さまのおはたらきそのものであります。


私のはからいで行ずるのではなく、また私のはからいで作る善でもありません。


お念仏そのものが大善であり、大功徳なのです。

だからこそ、私の自分勝手な生き方、罪業を打ち砕いて、転成(てんじょう)せしめたまうのであります。世間のどのような善をもってしても遠く及びつかない、【お念仏に勝る善はない】


お念仏は阿弥陀さまの行として行じられるものであり、私はただその生起本末をお聴聞するのです。好む好まないに関わらず、そこにはもはや私の手元には何ひとつ用事のないことを知らされ、お念仏ひとつに一切を投じ、一切をまかせきるしかない身とならせていただくのです。

私の声、言葉ではありますが、阿弥陀さまのおはたらきがあればこそ喜びでの因ではなく信心こそ正因であるのです。


少しもお浄土に生まれたいという心のない私が、「死なんずるやらんとこころぼそく」なるということです。


【老病死の苦悩の解決にかかわるもの】こそ宗教であると、前門主、大谷光真さまはお述べくださっておられます。


「死」は人間にとって一体何なのでしょうか。

それは「生」の否定であります。

しかし「信心の行者」にとっては、そうではありません。

「死」は往生浄土であり、即成仏です。

ところが「死」は「生」の終わりではなく人生の絶望でもない。

成仏だとしらされながらも、なお「死」を恐れるのです。

これは私が抱える煩悩がそうされているのです。

「いそぎ浄土へまいりたきこころ」は少しも起こらないのです。

辛くても、苦しくても、思い通りにならなくても、やっぱりこの世に執着する私なのです。どこまで行っても、仏に見捨てられるこの私が阿弥陀さまの大慈悲心によって

そのまま自然(じねん)のはたらきによってまいらせていただくのです。


それは決して、歓喜の心も願生の心もなくてもいいわけではありませんが、あるのこしたことはありませんが、煩悩深き我が身にて「恥ずべし痛むべし」であります。


ナンマンダブツと声に出てくださることは不可思議の世界であります。


大切にいたしましょう。南無阿弥陀仏




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