皆さま、こんばんは。
あっという間に週末を迎えます。
そして11月も終わりを告げます。
無常世界の過ぎ去る早さを日々痛感していますが、「老い」を実感すればするほど痛感することだと思います。
さて、[煩悩を断ぜずして涅槃を得]と、ご文章にはございますが、私たちは油断してはいないでしょうか。
私の力では行く場所が違います。[自業苦]から逃れていくすべはございません。
それを【凡夫】というのです。
他人のことばかりわかるので気にするのでしょうが、いざ自分自身についてはあまりに激しい毎日のためにわかったつもりになってはいないでしょうか。
【涅槃】
無始已来つくりとつくる悪業煩悩(あくごうぼんのう)を、のこるところもなく願力不思議をもて消滅するいはれあるがゆへに、正定聚不退(しょうじょうじゅ)のくらゐに住すとなり。これによりて、煩悩を断ぜずして涅槃をうといへるはこのこころなり。
涅槃の言語はニルヴァーナ。完全燃焼。
人間が立派に生き抜き死にきるということでしょうか。
私たちは、阿弥陀如来のお慈悲によって立派に生かされることを親鸞聖人は、正定聚の菩薩になると言われ、立派に死ぬことを浄土に往生すると言われたのです。
つまり死ぬのは、煩悩を抱えた私の[欲望]が亡くなるのであり、私というものは南無阿弥陀仏のお慈悲のはたらきにより[往生]するのです。決して[往生した]と使われる困ったことではないのです。
むしろ逆で楽になる世界が開かれるのです。
ではどこへ(生まれて往くのでしょうか)
それは阿弥陀如来のお慈悲におまかせしたならば(疑うことのない人)必ず浄土へ生まれて往くのです。天国でも地獄でもお墓の中でもありません。
人生とは何でしょうか。
チャップリンは、「人生は遠くから見たら喜劇であるが、しかし一人一人の人生をクローズアップしてみたら、皆が悲劇の主人公である」と言われています。
人生八十年、夜具の始末、食器の始末、掃除洗濯、ラッシュにもまれて通勤通学、毎日同じことの繰り返し、笑ったり怒ったり愚痴を言ったり悪口を言ったり言われたり、ギャンブル三昧、深酒喫煙、ストレス発散のつもりが逆にストレスを抱えてみたり、好きだ嫌いだ、得した損した••••こんなことをするために生まれてきたのでしょうか。
いやはやそうではない。
お釈迦さまのパーラミターのみ教えです。
【到彼岸】つまり、悟りの道へ至る。
これこそが私たちが生まれてきた意味なのです。
しかしながら悲しいかな人間は、楽で楽しいことにばかり気持ちが向かい、辛いこと悲しいこと苦しいことから逃れたいと思うのです。
【苦】は[煩悩]の所業ですから逃れることは大変難しいです。
しかし、この慌ただしい人生を力強く生きるには、私の力はまるで当てにはなりません。
【仏力】にまかせていく人生、それは南無阿弥陀仏を称えながら生きてことなのです。
称えたつもりではありません。
実践です。
「有難う」という気持ちを持ちながら、それを南無阿弥陀仏という声にしながら生きていくことこそが真の私の生きるべき道ではないかと最近、住職は考えながらお念仏を大切にしています。
してあげたとか、してやったという人間の浅はかな欲望など仏さまにはまったく用事がありません。させていただいたこそが布施の心では無いのでしょうか。そんなことを思いながら。
明日は初めての方が超法寺でお参りされます。
有難いことですね。
南無阿弥陀仏
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