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他力でしか救われない凡夫

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんにちは。

週末はいよいよ[宗祖親鸞聖人ご生誕850年、立教開宗800年慶讃法要]が築地本願寺でおつとまりになります。超法寺からは8名の参加を予定しています。布教所とはいえ50年に一度の法要に参らないわけにはまいりません。


自業苦の行いで地獄行きしか道のない私が諸仏さまのおはたらきに遇わせていたたけた、そのご恩をお返しする大切な法の場であります。

遇い難い仏縁に遇えたのは他ならぬ我が親が身をかけてお伝えくださったからであります。


私の好きなご和讃、

 「釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し

  われらが無上の信心を 発起せしめたまへ

  けり」にございます通りに、

中国の善導大師は、【貪欲】(とんよく)•【瞋恚】(しんに)の比喩をもって【他力念仏】をお勧めくださいました。


【釈迦は父なり、弥陀は母なりと、たとへたまへり】

私たちのような自我[自分が可愛い、自分が賢い、他者を責める生き方に埋没する]の愚かな凡夫[死ぬまで煩悩から離れられないもの]に対して、阿弥陀さまが無上[この上ない]の信心を起こさせようとされたことを、父母の思いにたとえられました。


父も母も我が子を一人前にするために心を鬼にして厳しくしつけます。

例えば悪いことをすれば「お前のような悪い子は家にはいらない」などと心にもない反対のことを言って我が子の改心を促します。

お釈迦さまのご説法の様子もちょうどそのように一人ひとりに応じたものです。

お釈迦さまは、ついとんでもないことをしてしまう私たちに、信心を賜れば必ず救われるにもかかわらず、五逆罪などの悪い行いをするものは救わないなどとおっしゃったりします。

⚪︎本心は私たちすべてを信じさせてお浄土に生まれさせようというものなのです。

[だから疑わず、まかせよ、救う]のお喚び声が届けられているのです。


親鸞聖人はご和讃に、

 お釈迦さま「この道を進んでいけば死を免れることができるぞ」【父のように】

 阿弥陀さま「心を決めて、こちらへ来なさい。私があなたを守りましょう。恐れるな」【母のように】

と、おっしゃっています。


このようにあらゆる手立てをもって、この私一人を間違いなくお浄土へ摂め取るはたらきが十劫[じっこう]の昔より既にわたしたちに喚びかけられているのです。


十劫とは、【劫】[こう]は時間の長さ。

一辺が40里ある岩がある。

一里は約4キロですから、40✖️4🟰160キロメートルです。

その岩の上に天女が3年に一度[100年に一度との説もある]舞い降りて、衣の裾でその岩をひと撫でして、岩が擦り切れ無くなる時間を一劫という。

それが10回繰り返されたほどの時間だそうです。どうでしょうか、1000年や10000年で無くなるでしょうか?きっとそれをはるかに超えるとてつもない時間でしょうね。


その間、私たちは何度、生き死にを繰り返したのでしょうね。阿弥陀さまは私たちの前にいて、変わらずはたらいていてくださったのに、どうして私たちは仏にはならずに生き死にを繰り返しているのでしょうね。

簡単です。「死ねば仏」ではないからです。

阿弥陀さまの【他力本願】【他力念仏】に遇うことができなかったからですよ。

また、迷いの六道[地獄]、[餓鬼]、[畜生]、[修羅]、[人間]、[天上]で、阿弥陀さまにお遇いできるチャンスは[人間]に生まれた時だけなんだそうですよ。


今がまさに阿弥陀さまとお遇いして、南無阿弥陀仏を我が身にいただくチャンスなのです。

そのチャンスを誰がくださったのでしょうか。

私は我が父であり、我が母、また祖父、祖母がみをかけてそれをお伝えくださいました。

まさに皆、諸仏のはたらきではなかったのでしょうか。私はそう思いますよ。


有難いとは、[有ることが難しい]のです。

当たり前なんかじゃないんです。

お坊さんとお知り合いになることだってなかなかないんじゃないでしょうか。

それなのに、阿弥陀さまの他力本願の南無阿弥陀仏に遇う、ナンマンダブツを耳に聞くチャンスなんか本当に稀ではないでしょうか。

だからこそ、その素晴らしい場に誘ってくださいました、お父さん、お母さんへ私ができる最大限のご恩返しは、私の愚痴のこの口に南無阿弥陀仏をお称えする私になることではないでしょうか。


今日は腰が尋常でないくらい痛みます。

明日はまた整骨院だから我慢我慢。

ご法要は雨予報です。

超晴れ男の私でもかなわないほどの方がいらっしゃるのでしょうかね。

それはそれとして有り難くお参りさせていただきましょうか。

南無阿弥陀仏

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