仏教の「愛」から見えてくるもの
- 超法寺の住職

- 7月23日
- 読了時間: 4分
皆さま、こんにちは。
参院選が終わり、ついに石破総理が辞任をされるようでSNSでは反自民の方々がここぞとばかりに大攻撃を始めておられますね。
何か無性に寂しさを感じるのは私だけでしょうか。
立場は違えど、上に立つものの苦しさ、悩み、さまざまなものがございます。
総理にも家族があります。我が子がいらっしゃいます。どう思っておられるのでしょうか。
親鸞聖人は、「あわれみ、らかなしみ、はぐくみ」のことを、「いとおし慈しむ」と、おっしいますが、言葉を変えたら「愛」。
愛っていい響きですよね。
しかし仏教ではあまりいい意味では使われません。
「渇愛」(かつあい)と言います。
渇愛とは、求めれば求めるほど渇いていくという意味です。
「愛欲」と言いますね。
『大無量寿経』には、「人は皆世間の中にあって独生独死独去独来」と書かれています。
人は誰も1人では生きて行けません。
一人で生きていけないから人間と書くのです。
人間とは、人の間でしか生きて行けません。
しかしながら生まれてきた時は一人です。
だから友達を作って、知り合いを作って、一緒に学び、はたらき、暮らす人をこしらえていく。その中で自分の立ち位置や存在を作り上げて、人の間の中で人間になっていこうとするのですね。
人を人間にするのは人です。
私は人生で一度だけ夫になりました。
それは自分でそうなったのではなく、妻が私を夫にしたのです。そのようにして私は人の間の中で生きてきたのです。
一人は辛いのに我を優先するから二人で無くしてしまう。それを愚かにもした私がありました。
独生独死独去独来(どくしょうどくしどっきょどくらい)言葉はよく知っていますけれど、なかなか独りだという認識は持てずにいる。
周りばかり気になって、自分はいつもどこかに置き忘れてしまいます。
私を1人にはしないというはたらきは私の方ではなく、阿弥陀如来さまの側にあります。
独りで寂しいと感じている私に南無阿弥陀仏の声を通したながらお伝えくださいます。
しかしながらかなしいかな、お念仏を称えていても、なかなか悲しみが解決していくことはありません。それでも阿弥陀如来さまはそのまま抱きとめていてくださいます。
わからないまま、そのままなのです。
「抱く」という字は、お母さんのお腹の中で子どもを包み込んでいる姿がこの字になったそうです。
子どもは大きくなると親を子ども扱いしたりする方がありますが、親は常に我が子を抱いていてくださるのだそうです。
親心を知るってなかなか難しいけど、包まれていたんだよな。なかなか気づけなかったけどお母さんはいつも見ていてくれた。笑っていてくれ、優しい言葉をかけていてくれました。
今でもあのお母さんを私は忘れることができません。
いまは生前の姿は思い出の中にしかありませんが、お母さんは諸仏のはたらきとなって、愚かな私に寄り添ってくださいながら、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と私を包み込んでいてくださるのです。
だから私は寂しいけどしあわせであります。
そんなお母さんに出会えた。
そのお母さんが間違いのない阿弥陀如来さまを私に教えてくれました。
あの手この手をかけて、愛情いっぱいに私の人生に今も寄り添っていてくださるのだから。
自分勝手にわがままに生きてきた私でありますが、お母さんは最後まで優しく、温かく私の側にいてくれました。最後はきっと私の声を聞いて喜んでくれたのかな。お母さん、ありがとう。今の楽しみは私の人生を全うして、またお母さんに「お兄ちゃん」って声をかけてもらいたいです。いや、あかん、泣けてきたよ。
親鸞聖人のご和讃が浮かんできました。
釈迦弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまへけり
「お釈迦さまや阿弥陀さまは慈悲深い父母です。巧みなさまざまな手立てを施して、私たちをこの上ない真実の信心を起こさせてくださった」
のです。
わかるわからないばかり気になる私ではあります。また何か聞いたら、南無阿弥陀仏を称えたら変わったような安心感がある私ではありますが実は何もわかってなんかなかったのです。
だから変わらず、愚痴や他者の悪口ばかり、自分を誇らしげにして見たりして生きています。
その危うい姿を阿弥陀如来さまは心配され、変われない私のために変わってくださるのですね。
あの手この手が私にはお母さんだったのかも知れませんね。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏




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