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仏教でいう不思議

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

皆さま、こんばんは。

今日は久しぶりに旧宅から運び整理出来ていなかった不要物を仕分けしました。ズボラな私ですのでお恥ずかしいことではありますが、やらなきゃいけないし、やらなきゃ山積みになるばかりです。

身体がついてこずかなり疲れました。


さて私たちが日常生活の中で何気なく使っている言葉には様々なものがあります。

大部分は元々仏教から来ているものも多くありますが、本来の意味とは違う使い方もたくさんあるものです。恩師からはお聖教も大切だが、たまには漢和辞典も読んでみると、気づかない発見があるものだと言われています。


大丈夫、頂戴、世間、方便、四苦八苦、往生、縁起•••••少し考えただけでもこれほどあります。 今回は「不思議」についてご紹介します。 不思議だなぁ、ってよく使いますよね。 元々はインドの古い言葉でサンスクリット語でアチントヤと言い、仏典に見られる語です。 『仏説阿弥陀経』には、「なんじら衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讚したまふ一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし」と説かれ、不可思議が阿弥陀仏の功徳をさしていると読むことができます。

また『仏説無量寿経』には「不可思議な兆載永劫(ちょうさいようごう)において菩薩の無量の徳行(とくぎょう)を積植(しゃくじき)して、欲覚、瞋覚(しんかく)、害覚を生せず」とあり、法蔵菩薩の行についての言葉と理解できます。単に想像を絶する、異様だ、神秘的だという意味では無いことが知られてきます。

ちなみに兆載永劫(ちょうさいようごう)の兆載とは、中国の算数に二十三(一、二、三•••••千、万、億、兆•••••澗(かん)、正、載)あるその十五番目と二十三番目を合わせたものです。

いかに長い時間を表しているものか推察でかこますよね、気が遠くなります。


それではなぜ法蔵菩薩はそれほどの長い時間修行をされねばならなかったかということです。

【仏になる可能性がないものを育てあげるにはそれだけの時間が必要だった】と説明します。

そう、死ぬまで煩悩から離れることのできない私が仏になるなんてそもそも有り得ないのです。皆さまはそう思ってなんかいないでしょう。

だって死ねば仏だから。

これは仏教を知らない人が勝手にこしらえたもの。それなのに自分の都合がいいように思い込んでいるに過ぎませんよ。

ここの解釈がどうも親鸞聖人とは違っていないでしょうか。親鸞聖人は「地獄は一定(いちじゅう)すみかぞかし」と言われています。

浄土真宗のみ教えを聞くとは、この地獄は一定すみかぞかしは、誰でもないこの【私】との気づかしですから。地獄行きのこの私にはなかなか気づくことが難しいのです。


皆さんは自分は地獄行きだなぁ、って思って生きておられますか。いないでしょう。

それほど悪いことなんかしていない。

でもそうでしょうか。テレビやニュースで凶悪事件が起こっても自分とは違うと思っていませんか。人間とは誰?私ですよね。人間は縁が整えば何でもできる生き物だと忘れてはなりません。


地獄にしか行き場所がない私がいて、それなのに天国に行くなどと呑気な生き方をする私がいるから【火宅無常】この途方に暮れるほどの長い時間修行を法蔵菩薩さまはされたのです。

不可能を可能にする力ですから不可思議と言われるのです。そう願力がおこされたのは、無始流転(むしるてん)の業苦(ごうく)に沈むこの私がいるからです。

私が勝手に救われるのではございません。


阿弥陀如来の【本願力】に乗托(じょうたく)して救われるのです。

仏さまのお心に触れ、味わっていく中に不思議という言葉を知ればこそ、今までと違った世界が開けていく、そのように言えるのではないでしょうか。


とにかく「地獄行きの私たち」とお話をしても皆さん笑われるのが実に悲しいし恐ろしいのですね。だからでしょか凶悪事件が増えるばかりなのでしょうか。だからでしょうか南無阿弥陀仏を称えて生きていく人が増えてこないのでしょうか。そんなことを感じている私です。

その私も日々地獄行きの日暮しであります。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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