🟢枯れ枝が ひっそりおちてゆくような 老いたる父の静かな旅立ち
〈平成29年10月16日(読売)
船橋市 鳥畑 泉
皆さまこんにちは。今日も快適なお天気になりました。洗濯物がよく乾いてくれそうです。
安穏なご本山参拝の余韻も落ち着く中、改めて日々の過ごし方を考えています。
いかにして超法寺を育てていくべきなのか。
いかにして私は邁進していくべきなのか。
そんなことを思いながら父の最後をこの鳥畑さんの詩を味わっていました。
【仏心とは大慈悲心これなり】
『仏説観無量寿経』
阿弥陀仏の大慈、大悲の心です。
大慈とは、大きな慈しみの心。
すべての人々を自己のごとく見る、そしてすべての者を我が一人子と胸に抱く慈しみの心です。
親の胸の中に、いつも子どもがあるがごとく、仏さまの胸の中に、十方の衆生、あなたがあるのです。
大悲とは、大きな悲しみの心。
病の子どもを持つ親の心は悲しく切ない。
出来の悪い子どもを持つ親の心は切なく悲しい。
でも捨てられない。そのまま胸に抱いて、その我が子のしあわせを願う。
親の心はかなしいのです。
自己中心の我執我欲の闇を抱え、悪を行じ、罪を重ねて生きる十方の衆生、あなたを胸に抱いた仏さまの心は悲しい。
悪を責め、罪を裁き、[悪人]と切って捨てることができるのなら、悲しむことはないのです。
仏さまはそのままを胸に抱き、十方の衆生、あなたの救い〈往生成仏〉を願う。
仏さまの心は悲しいのです。
これを大悲というのてます。
このお心が南無阿弥陀仏と私に届けられているのです。
それでも十方の衆生は背を向けて生きているのですね。
親の我が子への願いは我が子の[欲望]により、聞けない、受け止められない、だからもちろん親を呼べない。
南無阿弥陀仏と声にならないのでしょう。
それでもそれでも親は我が子を喚び続けます。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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