仏になるとは無我になる
- 超法寺の住職
- 3月10日
- 読了時間: 3分
皆さま、こんばんは。
今日は風もなくスッキリ晴れました。
有り難いですね。春はもうすぐですよ。
また春のお彼岸ももうすぐですね。
お彼岸はお墓参りだけではいけませんよ。
どうして過ごしやすい春秋に彼岸会があるのか、それは【仏法聴聞】(ぶっぽうちょうもん)を私たちにしてもらいたいというご先祖さまからの願いだからであります。
ご存知の通り、仏になるとは悟りを開くこと、それはただ命が終われば誰もが自動的になるものと思っておられるでしょうが違う。
我欲を離れ、我執を断ち、無我になるということであります。何か難しいですよね。
簡単に言えば、本当にどこまでも相手の身になることができる者になること。
他人の悲しみ苦しみが自分自身の苦悩となる。
全ての者のしあわせを願い、全ての者のしあわせを実現しようとはたらく者になるのです。
阿弥陀さまを「極大慈悲の母」と言います。
例えて言えば、仏になるとは十方衆生の母になるということです。我が子に対して菩薩の心(自らを捨てて他を救う🟰母性)を持つ母は、
泣いている子どもを見れば動く、苦しんでいる子どもを見れば動く、子どもの危険を知れば動くのです。頼まれたら動くのではありません。
これを【自然】(じねん)と言います。
悟りの仏さまが動く。
[生]に執着し、[死]を恐れ、[我]に執着し[罪]を作り、苦しみ迷いの人生をあゆむ[凡夫](ぼんぶ)を見て仏さまは動くのです。
ナンマンダブツ【南無阿弥陀仏】という[声]のお念仏となって、凡夫の身の上に働かれるのです。頼まれたからではないのです。
「一人ではないぞ。親がここにいる」
「罪はいかほど深くとも必ず救う」
「心配するなよ、お浄土に必ず連れて帰る」と、仏さま自らが自身の存在を告げて、凡夫である私を喚んでいてくださるのです。
それなのに煩悩の中に身を置く凡夫たる私はそれに気づかず、自分は正しいと自分の愚かさには気づこうとはせずに、他人ばかりを責めて生きようとしているのです。
どうにもならない苦悩の人生を歩み続ける私を、死ぬまで煩悩から離れられない凡夫たる私を仏さまは責めもせず、裁きもせず、「捨てることができない」と、摂めとっていてくださいます。南無阿弥陀仏と。
「抱く」という字には「包まれる」という意味があります。南無阿弥陀仏のおはたらきに常に包まれてある私であったと気づかせていただくのは、【仏法聴聞】を欠かさずにする中に少しずつ少しずつ、それに気づかせていただくことができるのではないでしょうか。
だからこそ、お彼岸には是非お寺へ参ってお彼岸のおいわれや、意味を知ることをしてみませんか。
超法寺では第4土曜日午後2時から春季彼岸会をお勤めします。どうぞお気軽にお参りくださいませ。南無阿弥陀仏
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