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仏がござる

執筆者の写真: 超法寺の住職超法寺の住職

親鸞聖人は、「浄土和讃」や「高僧和讃」では「衆生」という言葉を使っておられますが、「正像末和讃」になると「有情」という言葉となっております。

これは「衆生」は旧字で「有情」は新訳だそうです。


『歎異抄』の第五条には、「このゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母

兄弟なり」と述べられてあります。

このことは、私のいのちの歴史をさかのぼってみますと、はっきりしてきます。

私の4代前は十六人、5代前は三十二人、10代前は千二十四人。

20代前は何と百四万八千五百七十六人!

30代前になれば、十億七千三百七十四万一千八百二十四人という計算になります。


このうちのどこか一人でも欠けていたら、わたしの命がここにはなかったということです。つまり、わたしの命は私一人が好き勝手にできるようなものではなかったということことを知ることができるのでしょうね。違いますか?

こちらかではわからないようでしょうが、逆に30代前の先祖から見れば、二人平均の子どもがいたとしても十億人もの子孫が誕生したことになります。

私が知らないだけでこれほどのいのちが私を支えているのですから。

皆、繋がっているのです。一人なんかじゃないんです。


ですから私は常々、ご法話でこのおいわれをお話ししているのです。

苗字にしても、縁があればこそ同じ姓名を名乗っている。ましてや出身地が同じなら、私が知らないだけで実は皆、親戚ですよ、って。

そう思ったら人生楽しくないですか?モノの見方を変えてみましょう。


私の姓は「末田」です。

関東ではあまりないのです。

発祥は豊後半島だそうです。そこから船で広島へ渡ったのが広島に「末田」性が多い

のだそうです。大分県湯布院温泉に末田美術館があり、そこでこのいわれを聞きました。

まだ千葉にいた時のこと、千葉には「末田」は5件しかありません。

ガソリンスタンドでオイル交換をしていたのです。控えで待っていると係から「末田さ〜ん」と呼ばれ「は〜い」と返事をしたのですが、何と二人が返事をしたのです。

びっくりしました。だって、千葉には末田は5件しかいないのに、二人の人が末田さんだったのですから。こんなことって珍しいですよね。

もう一人の末田さんも驚いたそうです。その後、コーヒーを飲みながら語り合ったのは言うまでもありません。縁って不思議ですよね。


それだけ多くの不思議の中に私のいのちは繋がっているのです。

とにかく知らないだけでせせこまい人生を生きていませんでしょうか。


また、このひとつの命が維持されてきたということは、多くの命を持った食物をいただいて生かされてきたということになるのです。

決してお金を出したからではなく、私の命を維持するために犠牲となってくださったのです。別に私に食べられるために存在しているのではありません。

勘違いしないでくださいね。

肉も魚も野菜もお米も皆いのちがあるのです。その命をいただいたからこそ私のいのちが成り立っているのです。数えきれないいのちに支えられてこそのこのいのちです。


「たべものには仏がござる、おがんでたべなされ」

                  [岡崎女子短期大学助教授・宇野正一氏]


この言葉は、命のもとを忘れている私たちに対して、他のいのちによって生かされていることに気づいてくれよと教えてくれるのであって、また生きとし生けるものものは「平等」であり、「共生」であるということなのです。


インドでは、食事の招待を受けた時に、「全部食べてしまったらいけない」と言われています。これは日本とは考え方が違いますね。日本では逆に、昔からのエチケットとして残さずに食べること、勿体無いを大事としています。


禅宗では食事の前に箸で少しのご飯を皆で小皿に置くという作法があるのはインドの

作法に似ているのかもしれませんね。(食事後に鳥や魚に施します)

※是非、残してしまったら捨てずに鳥などに施していくことを実践してほしいです。


このことは人間だけで生きているのではない。共に生きていることに目を向けていくことが人の心の温情を感ずる。(『泥中蓮』)梨本哲雄氏


命のつながりをもっと考えることができたならもっと違った社会になると思います。

昨今のクマにしても、私たちが食べ物を独占していること、貴重な食べ物を粗末にしていることへの警鐘と捉えていきたいものですね。ナンマンダブツ




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