おはようございます。
まだ外は夜ですが起きちゃいました。
最近朝早起きになりましたね。
「老い」何でしょうかね。
私は56歳、世間的には後4年で赤いちゃんちゃんこだし。後何年今のままやれるんだろうか、などと考えたりしちゃうなぁ。
だって一日、一日と、着実に人生はカウントダウンしていますからね。
それはいつ終わるのか、どのように私が変わっていくのか、きっと自分が考えているようにはならないのだろうな。
少なからず父のような老後(身体)なるのだろうなぁ。
良い見本を見せていってくれましたからね。
ただ、生き方は反面教師にしていくよ。
日々、数限りないことで悩み、泣いたり笑ったり、たわいのないことを語りしている私がいます。
一刻一刻と、過去になっています。
過去を、漢字で書くと「過ぎ去り」「去った過ち」、未来は「未だ来らず」といいます。
私は一体どこに存在しているのか、今ここに存在しています。
仏教では常に【今現在説法】
今ここに私のところに【法】は説かれています。そもそもお経は、お釈迦さまの説法が元に作られていますから、お経が読まれる、お経を聞くということはお釈迦さまの説法を今聞かせていただいていることになりますよね。
もし過去に辛く悲しいこと、喜び、悩み、さまざまなことに光をあて【今この時】が輝くならば、今までのことが輝いてくるのではないでしょうか。今すぐにはわからないし、意味のないことと思うのでしょうが、時間が過ぎていく中に実はとても意味のあることと思えるのではないでしょうか。
さてここで、以前某新聞投稿欄でみたものを参考にご紹介します。
32歳の主婦の方から、
その方は幼少の頃から母親に虐待されて育てられ、父親は不在で、そのためか非行に走りシンナーやあらゆる薬を覚え、あげくに重いアルコール依存症、もがけばもがくほど沈んでしまう泥沼生活。しかし、そこから救い出されたのは、ご主人との出会いでありました。
すべて承知の上で結婚され、一年後に男の子を授かり、その子も早5歳、「ママ、ママ」と信じきっている。
その主婦の方は今になって当時の母の心が少しわかるような気がすると述べられ、母を恨み続けて来た思いを越え、「今、幸せなのは母がこの世に送り出してくれたから。私を産んでくれてありがとう」と結ばれていました。
この主婦の方は、暗く悲しい恨みの過去が、今、幸せに輝いていることを通して、大切に感じておられる喜びを伝えていただいています。
私たちは、さまざまな結びつきによって存在しているのです。
その一つでも欠けていたら今の私はここに存在することはできないのですよ。
つまり、私がどのように感じ、思っても、誰とも代わることができない、たった一つのかけがえのない【命】なのです。
私の身体はいかようになろうとも【生きる】選択をして私を生かしめようとしています。
それを私の誤った考えで自己放棄をしてはならないのです。
私たちが一人で生きていくことは本当に辛く悲しい、苦しいことばかりであります。
だからこそ、一人ではないことを忘れないように、知ることが大切なのです。
仏教の教えを聞くとは難しいこと(難しいと思い込む)、偏見はありますが私たちのためにお釈迦さまは説法されましたから本来、わからない私にそんなこ難しいことをおっしゃられることなどなかったはずです。
近年は特に若い人は、他人の話を最後まで聞かない傾向があるといいます。
きちんと聞いてから自分の話をしないでいけないことなのでしょうね。
(私もその傾向があるようです。よく注意されちゃいます恥)
かけがえのない命を今生きている素晴らしさ、この事に早く気づけよと、親以上に心配し、常に喚びかけ願い続けていただける方、これが南無阿弥陀仏の仏さまなのです。
今、この時この時を、私がどのように受け止めていくべきか。それは常に仏さまの大いなる願いの中に私は生きているんだ、私の命がそう今私に願っているのだと気づかせていただいて、私を取り巻くすべてのものを尊く感じていくことが大切なのでしょう。
そんなことを思いながらこのブログを書いていたら、外は朝となりました。
おかげさまでまたいつもと同じ朝を迎えています。有難いことですね。
今日は縁あってめっちゃ久しぶりに大阪へ行き、明日は京都で全国布教同志会の布教に立たせていただきます。
私の青春時代の象徴、顕道会館へ凱旋します。スイも甘いも経験したあの場へ。
どのような風景が見れるのかワクワクします。
私らしく精一杯のお取次をしてこようと思います。よければYouTube等でお聴聞を賜われたら嬉しいです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
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