皆さま、こんばんは。冷たい雨が降っています。今週末はまた雪予報が出ていますね。降る降る詐欺を願いましょうか。でも降る時は降るものだから身を任せておきましょうか。
私たち人間は、悲しいかな自分は愚かだとはなかなか思えないものです。学歴があろうと、ノーベル賞をもらうほどの素晴らしい知識を持っていようが存在そのものが愚かなことであります。
それは真実の光に照らされてこそ初めて見えてくる実相であります。
中国の善導大師が、
【自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねに没(もつ)し、つねに流転して、岀離の縁あることなしと信ず】と言われています。
これは法のはたらきによって知らされた自身の救われ難い姿であります。これは古来より機の深信(じんしん)と言われるもので、阿弥陀如来から賜りたる信心によってつまびらかになった私の有り様であります。
一方、法の深信は、このような私のために誓願を建てられ、さらに南無阿弥陀仏という言葉となり、み名となって私に来てくださっている、つまり名号のはたらきをそのまま領受した相を【信心】と言います。
したがって、機の深信も法の深信も、一つの信心の両側をいうのです。
「人間が人間らしく」とは、背伸びしないで、あるがままの本来の私の姿、愚かにかえることであります。それは信心のはたらきであります。
※罪悪とは犯罪ではなく、貪欲(とんよく)や怒り、腹立ち、妬み、恨むという煩悩を言います。ねっこには我愛、我執があります。
※貪欲とは貪りの欲、つまり満足できずに不足ばかりで欲を満たすことばかりに執着していきます。その結果、自身も悩み、他者も悩ませていきます。そこを阿弥陀如来は見抜いていてくださいます。
不足を言わずに、自分にはこれでちょうどよい、そう思えれば人生は豊かになります。
そうなる為には、真実なる法に照らされてこそそうなるように少しずつなっていきます。
阿弥陀さまのおはたらきがそうさせていきます。
以前聞いた話てすが、ベルギーのアントワープに浄土真宗の道場を持っておられるアドリアン•ペールさんという方の話です。
大学の教授で、クリスチャンだったのですが、善悪の問題に大変悩まれ、ドイツ語に訳された親鸞聖人の著述に触れて、やっと善悪を超えた救済に出遇えたといって、西本願寺で得度(お坊さんになる儀式)されて、僧侶として布教活動をされておられます。
このペールさんの感化を受けた警察官が、ペールさんからもらった腕輪念珠をされていたそうです。
その警察官にある人が聞いたそうです。
「やはり商売繁盛のために腕輪念珠をしているのですか」と。
すると「商売繁盛を祈るような警察官がいるものか。これは腕輪念珠といって、お前は警察官だといって、他人の悪ばかり見ているが、お前自身もいつ何をするかわからんよ。そのことを仏さまが諌めてくださっている。それが腕輪念珠だよ」と言われたそうです。
『歎異抄』第十三条に、
「さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」と、あります。
人間は素晴らしく尊いものです。しかしそれは他の生き物より優れているという意味ではありません。他の生き物は、人間とは違い「本能」に生きています。人間は「煩悩」に生きる凡夫ですります。ただ生きているだけでは救いもなく苦しんでいくばかりです。
人間に生まれた尊さは、「仏法の器」として生まれた有り難さがあるのです。
阿弥陀さまは、ず〜っと、ず〜っと前から喚び通しによんでいてくださるのです。
親鸞聖人はご和讃に、
弘誓のちからをかぶらずは
いづれのときにか娑婆をいでん
仏恩(ぶっとん)深くおもひつつ
常に弥陀を念ずべし
と、教えてくださいます。
人間が人間らしく生きるには、動物にはない仏法を聞いて他力の信心にいきていくことなのです。せっかく人間に生まれたというのに、阿弥陀如来の誓願に遇わず、他力の信心(南無阿弥陀仏)もいただかずに人生を終えたら勿体ないです。人間に生まれたときでしか阿弥陀さまにはお遇いすることなどできないのですから。
南無阿弥陀仏
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