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人間は皆、裁判官

昨日はきっと日本中がWBC日本代表の劇的な優勝で歓喜の輪に包まれたことでしょうね。

昨夜、今朝の報道でもこの話題で満ち溢れていました。

しかし、時間と共に「過去」となっています。

侍JAPANの戦士たちが帰国すればしばらくまた興奮しますが、すぐに彼らも開幕に向けてモードを切り替えねばなりません。

また、骨折をおして最後まで出場した埼玉西武ライオンズの源田壮亮さんは、ケガを治していかねばなりません。

大変な代償にならねばいいです。


さて今回のWBCの経済効果は600億とも言われますが、花見による経済効果と合わせてもコロナ禍で失った経済損失にはとても及ばないのでしょう。また、ウクライナとロシアの紛争での電気代やガソリン代、ガス代などの家庭負担を考えると焼け石に水なのでしょうか。


私はまたコロナ感染者が増えないかとヒヤヒヤしています。


このように私たちは、それぞれがあれやこれやとさまざまなこと(話題)にそれぞれが評価をします。

超法寺も、葬儀業者、僧侶派遣業者、喪主(施主)、築地本願寺さま、埼玉県の浄土真宗本願寺派寺院の皆さま等々から日々、評価されています。


少しでも気を抜きますと超法寺や私への評価は地に堕ちます。だけどそれぞれの常識は覆すことは容易ですよ。いい加減にやらねばいいだけだから。それでも人間はいつも他人が間違っていて、自分が正しいというところがありますので争いが絶えません。


親子、夫婦、嫁姑が喧嘩などしようと、反省はしますが、答えはいつも同じです。

やっぱり相手が悪い、と反省するのです。

私が堪えてあげているのよ、と。

そして、いつも、自分が正しいというところに執着します。これを【我執】(がしゅう)というのです。


【人間は皆、裁判官 他人は有罪、自分は無罪】


何かあると「あれがつまらん、彼がつまらん」と、他の人を裁きます。

他人が失敗すると過去のことまで引っ張り出して、「あの人はいつもあんな具合だ」と裁きます。


しかし、どうでしょう。

自分が失敗すると、「あの場合は仕方がなかった。あれしか出来なかった」と、いつでも情状酌量、無罪もしくは執行猶予なのでしょう。


このような生き方をするのが人間です。

それなのに、死んだ人は皆、仏さまと思い込んでいるから恐ろしいです。

何をしでかすかわからない、そんな私だというのに、私は正しいと自らを省みることをしません。いつでも他人が間違っていて、自分は間違っていない。


なかなか自分の恐ろしさは自分では見えません。普通は、皆「自分は良い」でしょう。

煩悩すら間違いないと煩悩に執着して、煩悩に引きずり回されて生きているのが私たちです。


煩悩に引きずり回されているあり方を【迷い】【生死】というのです。


【煩悩】について親鸞聖人は、

【煩(ぼん)というは身を煩わし、悩(のう)というは心を悩ます】と言われています。


我が身心を苦しめる心の動きが煩悩なのです。

結局、自分自身を苦しめるような心の動き、そんなものをも後生大事につかまえて、気づいたらそれに引きずられているのが私たちなのです。


勘違いしないでください。

煩悩を克服もせずに人生を終えても、いいところへも仏にもなれません。


元気も欲、食欲もやはり欲、

身の回りをよく見てごらんなさいよ。

【貪欲】(とんよく)な生き方ばかりじゃないですか。

食べるもの、飲むもの、着るもの、乗るもの、何から何まで贅沢になりました。


食べても食べても満足しない。

高級酒を飲んでも飽き足らない。

着る物がたくさんあって外出するに迷う。

乗る車もバカでかい高級車を乗る方が多い気がします。外車を乗り回すお坊さんを見かけると何か悲しくなりますね。

ま、逆もあるけどそちらの方がらしくて私は好きですよ。


不足、不足をいつも腹一杯に詰め込んで喜びを失っている姿を【餓鬼】と仏教では言います。

これは死んでからの話ではなくて、死ぬ前から【餓鬼道】(がきどう)に堕ちているのです。


仏教は、「死んでから地獄に行く、餓鬼道に行く」と、死んでからのことを説いているものではありません。

それは儒教の考え方です。

【勧善懲悪】(かんぜんちょうあく)、善を勧めて悪を止めさせるために、仏教の【地獄•餓鬼」を利用したのです。


仏教は、悪いことをしたら、「地獄に堕ちる」という教えではありません。

間違わないようにと気をつけていても、「地獄に堕ちる」以外にないお粗末な「いのち」の救われていく道を教えてくださったのが仏教です。

仏教は死んでからの話ではなく、死ぬ前から「地獄に、堕ちている」のではないかと、今、ここにある「いのち」のあり方を教えていてくださる教えです。


このような人生で一生を終えていいのでしょうか。どうしたらそういう迷いのあり方から抜け出して、本当にいただいた「いのち」の100%を生きることができるのか、そのことを【生死出ずべき道】として明かしてくださるのが仏教なのです。


親鸞聖人が私たちに教えてくださったのは、先祖供養や精神修養ではありません。

また私の欲望を叶える現世利益(げんぜりやく)でもありません。


⭕️どうしたらこの「いのち」を、こんな粗末な状態から抜け出して、本当に私が私の「いのち」を生きる人生が実現するのか。

◉【生死出ずべき道=往生極楽の道】


⭕️本当に「いのち」が大事ならば、この「いのち」はどこへ行くのかと真剣に問わずにはいられないはずです。

それを先人たちは、【仏法聴聞】という形で、お寺参りを重ねてきたのです。

【聞く宗教】とも言われる所以が浄土真宗にはあります。それは【聞くことを重ねていく中に備わっていく教え】ですから。


聞いて忘れて 忘れて聞いて

わたしゃ籠耳

お慈悲の水に今日も一日ざぶりと浸かり

ご恩喜ぶしあわせものよ


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

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