人間は恐ろしいのです
は隣市で起きた凶悪殺人事件は容疑者が逮捕され安堵された方も多かったのではないでしょうか。
やはり近隣トラブルでしたね。
皆さま、人間は恐ろしい生き物ですよ。
皆さまと同じ人間がしでかしたことです。
人間は【欲】で生きています。
つまり仏教で言えば【煩悩具足の凡夫】です。
[凡夫]
親鸞聖人は仰せになる。
「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほ(お)く、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほ(お)くひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえずたえず」
〈意味〉
凡夫(ぼんぶ)は、命終わるその瞬間まで、煩悩から離れられないものを言う。
すべてのことを私中心に見て争いを起こし、欲望•怒り•妬みに、心と身体を悩ませ苦しみ続ける。
💮仏法に出あうとき、煩悩に満ち満ちている凡夫は、他の誰のことでもなく、この私のことと気付かされる。
念仏【南無阿弥陀仏】申すひぐらしの中に、ありのままの私の姿をみせていただく。
◉私も今年は仕事用に買ったボロ軽自動車のエアコンが壊れて修理に出して代車を借りたら(きっとまた車を乗り換えやがって坊主丸儲けかよ!で)その車と、離れたところの月極め駐車場に置いていたリース車に業務用の剥離剤のようなものをかけられて車をボロボロにされました。
これもきっと妬みからなのでしょうね。
修理代は2台で約1000000円かかります。
超法寺の存亡の危機になりました。
ま、しかしながらこの世はこんなものです。
だってみんな自分の都合、みんな自分の勝手な論理で他を傷つけて、命を奪うのだからね。
こんなことしても何にも得にはならないのに。
だってこの世は【因果応報】だから。
だから私は犯人探しはいたしません。
防犯カメラ映像で犯人はわかっているけどね。
犯人を責めたとしても大切な車が綺麗に元通りになるわけじゃないし、私の鬼の心が👹清浄となるわけでもありません。
憎しみは今回のような地獄絵図【自業苦】になるだけです。
犯人も、今回被害を受けたご家族も、【仏法】をいただいた人生であったならば、愚かな生き方を慎むことができたかも知れません。
だからこそ、人間の知恵、知識だけをたよりに生きてはならないという【ご催促】があるのです。
[愚者のよろこび ] 親鸞聖人のことば
阿弥陀如来は、「必ず救う、われにまかせよ」と、よびかけておられる。
そのよび声を通して、確かな救いのなかにあることをよろこぶとともに、ありのままの私の姿を知らされていただく。
阿弥陀如来の光に照らされて見えてきた私の姿は、煩悩に満ち満ちた迷いの凡夫であった。
確かなものなど何一つ持ち得ない愚かな私であったと気づかされる。
親鸞聖人は、法然聖人より、
【愚者になりて往生す】
との言葉をうけたまわり、感慨をもってお手紙の中に記された。
このような私だからこそ、救わずにはおれないと、阿弥陀如来は、限りない大悲を注いでおられる。
この深き恵みをよろこばせていただくより他はない。
『拝読 浄土真宗のみ教え』より
◉このように犯人探しなどしてその人を責めてみても仏法を聞かず、南無阿弥陀仏を申しながら生きておられないならば、結局は因果応報の理によって、飯能市のような恐ろしい事件がこの入間市で引き起こされることになりかねないのです。
私が生きてきた中で、私自身もどなたかに似たようなことをして、それを私の記憶の中にはないのかも知れません。
人間は【されたことは忘れないが、したことは簡単に忘れる生き物】なのだから。
皆さまも是非、仕返しなど考えずに生きていきましょう。命あればこその人生であります。
車が身代わりになってくれたことに感謝して、車に愛情を持つことから私は始めました。
なるようになる。心配するな「一休禅師の遺訓」
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏